資料2.龜阜齋蔵硯録と蘭千山館名硯目録

龜阜齋蔵硯録

102面の硯の写真があり、産地別に見ると、端渓硯が52面、歙洲硯26面、澄泥硯5面、紅絲石2面、瓦磚瓷硯5面、その他12面である。
時代別に見ると漢1、宋8、元2、明39、清52、となる。
水岩については大西洞と記載されている硯は1面で有るが、大西洞(張坑)が3面ある。これは『端渓硯譜七種』の巻末の水岩開坑の記録より清末光緒15年(1889年)開坑時に採取された古硯、大西洞の最後の石である。 老坑という記載は全て清代であるが、水岩2面は明代であることが興味深い。さすが下巖の硯はない。
宋時代の硯は半邊山2面(他に明代1がある)、梅花坑1面だけである。
宋坑の硯は西江の対岸、北嶺に産する石である。明代6、清代が5面の計11面。
麻子坑、坑仔巌は清代だけ3面づつ、朝天巖は明代1. 宣徳巖は明1、清2面の計3面。 緑端は明代1. 梅花坑は宋1、明1、清1の計3面である。 坑名の不明な者の多くは旧端渓硯と記載されている。
歙洲硯では、宋5、元1、明16、清4面と明代の硯が多い。 
簡単に産地と石質に付いての記載があり、比較的解読しやすい。 銘の入った硯は極く僅かである。
例えば

1 錦書硯 清代 端渓
長15.5×寛11×厚1.9cm老坑大西洞優材、石色天青、微帯淡紫、有雨霖墻青花、鵝毛氄青花、玫瑰紫青花、金線、火捺、魚脳砕凍、鴝鵒眼。有暈数層、翠緑色、瞳子黄緑。 刻祥雲錦地書巻式、書巻凹処琢硯池、清中期製作。

老坑大西洞の優材である。石の色は天青で僅かに淡い紫色を帯びている。雨霖墻青花、鵝毛氄青花、玫瑰紫青花、金線、火捺、魚脳砕凍がある。鴝鵒眼には数重の暈があり、翠緑色で、瞳は黄緑である。祥雲を刻し錦地書巻式で、書巻の凹所を墨池としている。清中期の作である。
高校時代に漢文を少しかじった程度でもどうにかなる文章で、理解しやすい。 この硯の色は天青帯微紫と表現されており、水岩系特に大西洞の特徴らしい。 ここの写真では見られないが、各種の青花があり、呉蘭修の『端渓硯史』によれば「玫瑰紫青花は惟だ大西洞のみこれあり」とされている。言い換えれば、この青花があれば大西洞との硯と言ってよいらしい。
清朝末に開坑した張坑の大西洞硯3面の内2面は天青帯微紫色であるが、あと一面は青灰帯紫色であり、果たして大西洞かどうか疑わしい。しかし呉蘭修の『端渓硯史』によれば胭脂暈と冰紋は大西洞にしか見られない石紋とされている。石色だけで水岩か否かを決めることは出来ないようだ。

7 梅花硯 清末 端渓
長20.6、寛13.8、厚2.1cm此硯為“張坑”硯材製作、石色天青微紫、有金線、銀線、冰紋、火捺、魚脳砕凍、胭脂暈、微塵青花、蠅頭青花等名貴石品。硯上角刻倒掛梅椿、蒼頸有力。 背刻子母龍於祥雲中張之洞(1837~1909年)河北南皮人、清同治進士、1884年任両廣総督、嘗於光緒15年(1889年)開採大西洞硯石、這次所得硯石質量較高、爾後人們対此期間的優質硯、称之、“張坑”

この硯は張坑という硯材で製作されたもので、石の色は天青色で微かに紫を呈する。金線、銀線、冰紋、火捺、魚脳砕凍、胭脂暈、微塵青花、蠅頭青花等の貴重な石紋がある。硯の上角に倒れかけた梅椿を刻し、枝や幹の多数の皺は力強い、背面には母子の龍を祥雲中に刻している。
張之洞(1837~1909年)河北南皮人、清同治の進士である。1884年に両廣総督に任じられ、曾て光緒15年(1889年)大西洞硯石を開採、這い入り、得る所の硯石は質量共にやや優れていた。 爾後人はこの期間の優秀な質の硯を“張坑”と呼んでいる。

8 玉銓斎硯 清光緒 端渓
長18.9、寛12.7、厚1.8cm大西洞(張坑)硯石、石色青灰帯紫、有火捺、魚脳砕凍、金線、玫瑰紫青花、子母青花、背刻光緒庚寅(1890年)端洲玉銓斎銘、襯以浅刻双龍紋。玉銓斎為清時在肇慶府(端洲)城内道前正街有名的端硯製作店

  大西洞張坑の硯石である。色は青灰で紫色を帯びている。火捺、魚脳砕凍、玫瑰紫青花、子母青花がある。背に光緒庚寅(1890年)端洲玉銓斎と刻している。浅彫の双龍紋を襯(ほどこ)している。
  玉銓斎は清時には肇慶府に在り、城内道前正街の有名な端硯の製作店である。

この張坑からは良質な硯石が大量に採れたようで、現在でも肇慶市下黄岡の廟内に記念碑が建っていて、1984年肇慶市の重要文化財に指定されたとの記事もある。

87 鐘硯 清代 端渓
長15.5、寛10.2、厚2.4cm老坑石、石色天青帯紫、有金線、微塵青花、玫瑰紫青花、火捺、魚脳砕凍等石品、仿古鐘式、懸鈕為墨池呈凸字形、鐘体為硯堂、懸鈕及背刻各種古銅紋、雛飾工精。乾隆年間製作。

乾隆年代には、乾隆42年(1777年)、乾隆45年(1780年)、乾隆47年(1782年)の3回開採が行われ、この頃採出された石は今までに類を見ない美麗なものであったという。
 先に手に入れた相浦紫瑞著の『百華硯譜』第2集には白黒写真ながら青花が散見される乾隆期大西洞水岩硯が数面提示されている。この本では硯の色が無いので分りにくかったが、逆に龜阜齋蔵硯録では色はどうにか想像できるが石紋が全く分らない。写真のプロがこの状態だ。硯の写真を正確に撮ることは難しいのであろう。
 この硯は老坑と記載されているが、乾隆年間に製作された事、及び玫瑰紫青花もあることから、この硯も大西洞である。

銘硯の内一面は黄任の銘の入った硯である。 紹介してみよう。 次の蘭千山館名硯目録の文と比較すると両者の違いが良くわかる。

92 黄任古甃硯 清代 端渓
長17.7、寛13、厚2.2cm此硯為旧端渓天然石材琢製、色紅紫而温潤、有火捺、胭脂暈、魚脳凍、冰紋、刻方囲壁池、背刻黄任銘 黄任(1683~1768年)福建永福人。字于辛、号辛田、康熙挙人。官廣東四会知縣、有硯癖、自号十研先生。

この旧端渓と言う表現をこの本では良く見るがどこの坑の石かわからない。天然石とは子石の事らしい。色は青紫色ではないが、冰紋と胭脂暈が有ることから水岩系の石と想像される。黄任は乾隆初期~中期の人であり、乾隆期の大西洞開採には関わっていないようだ。『西清硯譜』全24巻が出来たのは乾隆43年(1778年)である。黄任の死後10年後のことである。
 この硯の他にも水岩と思しき硯を数面見る

蘭千山館名硯目録

 この本は台湾故宮博物院より発刊されている。台湾の富豪林柏寿が収蔵していた硯であるが、没後これらの硯は全て故宮博物院に寄贈された。1987年これ等の109面がカラー写真版で発刊されたらしい。故宮博物院の編集なので清代の四庫全書中の欽定西清硯譜の構成と似ている感じを受ける。文の内容は難解である。
 西清硯譜では銘硯は宋代では蘇軾(6面)、米芇(3面)の他、明代では文徴明(1面)、董其昌(1面)他数名に過ぎない。
これ等の有名人の小伝は全く述べられていないのに対し、蘭千山館名硯目録では掲載されている109面中の95面までが銘硯である。内容のほとんどが銘を刻んだ人の小伝及び詩文の解説に割かれている。西清硯譜の刻文のほとんどは乾隆帝の御題詩の解説に割かれている。この西清硯譜では硯石に付いての文章が見られ、硯の時代、産地、坑名が記されている場合が多い。これに対し蘭千山館名硯目録では産地については、せいぜい端硯位で、歙洲硯では歙洲の文字すら見えないことがある。林柏寿は硯石の研究家ではないようで、銘の入っている硯なら何でも大金をはたいて購入したようだ。少し硯を見た人なら誰でも分る祈門石を買いこんでいるが、この石にも産地は記載されていない。ただしこの硯銘は偽銘であると述べられてはいるのだが。林柏寿は商人故に、硯石の鑑定は出来なかったか、又はあえて鑑定をしなかったのかも知れない。彼は歴史上有名な人が持っていた硯の収集家だったらしい。よって産地や坑名は写真から推測するより他はない。
 西清硯譜が強大な権力の下に集まる天下の名品を皇帝が御覧になり、詩を賦して自分の銘を刻ませた硯譜である。誰が持っていた硯かなど、乾隆帝にとって問題にならなかったのではないかと思われる。これに対し、蘭千山館名硯目録は富豪が金の力で集めた、古の有名な人の名前や詩が刻された硯の写真集である。林柏寿の銘が刻まれた硯は無い。それゆえ故宮博物院に寄贈できたのであろう。石に自分の名を刻せば千年位は歴史に名が残せる。大富豪はいくら金があっても名は残せてせいぜい3代まで、没落すれば誰一人知る人は無くなる。しかし文人でも書家でもない商人では石に名を刻むことは許されないのかも知れない。だが全てを寄贈することで彼の名は故宮博物院が続く限り残すことが出来た。正史に名が残らなくても小伝位には残すことが出来たのかも知れない。うまい事を考えたものだ。
とにかく我が国の書道に関する本を開けば必ず眼にする文人、書家、画家の銘が並んでいる。
沈瑾は『沈氏林硯』で有名である。沈瑾又は沈石友は愛硯家で157面の蔵硯の多くに友人呉昌碩が銘文を刻したが1917年に没し、没後『沈氏林硯』に収められた。その後間もなくこれ等の硯全てが日本の白沙村壮主橋本関雪の手に渡り、関雪が昭和25年に没してしばらくして全てがコレクターの手に渡り、散逸したと、宇野雪村著の『文房清玩、上』に述べられている。この散逸した硯数面が林柏寿の手に渡ったらしい。
高鳳翰は書家、画家であると共に作硯家としても有名である。作硯家としては顧二娘も有名である。黄任の集めた硯石の多くを顧二娘が作硯している。二人の銘が刻まれた硯もこの本に見られる。これなどはまさに故宮博物院の宝物であろう。
日本でも蔵硯家として有名な黄任は西清硯譜勅撰以前の人である。 蘭千山館蔵硯目録に次のような小傳が見られる。

黄任(1683-1759年)、字莘田・号香草斎、十硯斎、十硯先生。福建永福人。善詩、具詩人情、工書、尤嗜硯。康熙挙人、曾任官四会、値開坑採端石、遭劾帰・自謂厭装惟端硯数枚・詩束両牛腰而巳。其佳石多付呉門顧二娘手琢・自為銘題・品其甲乙。著有秋江集・集中詠硯詩獨多・倶泠然可踊。

挙人とは明以後、各自の郷里で行う試験に合格し、都で行われる試験(会試)を受ける資格の出来た人を言う。黄任は生涯この会験に合格することは出来なかった。即ち進士の試験に合格していないのである。 しかし官吏として広東四会の県令に任じられた。 県令といえば県の長官であるが、日本の制度とは逆で、府の下の行政区画の長。 だいたい町長クラスの職であろう。高要県事務を兼務した。 この高要県は端渓硯を産出する地域である。黄任は進んでこの職を望んだのであろう。そこで端石の開坑に値(あ)う。 この際、官吏の役得を利用して。多くの端石を集めたらしい。 この事で小人の讒訴に遭って、退官せざるを得なくなり、集めた硯石数枚を持って故郷に帰った。 讒訴したのは恐らく黄岡村に住む硯製作業者であろう。集めた水岩をこの黄岡村の業者に刻を頼まなかったからかも知れない。 この石はその後、蘇州に住む呉門顧二娘に託され琢が施された。
顧二娘は作硯家として有名であり、端渓の老坑の良石でなければ作硯しない、といわれていた。 黄任の石は顧二娘を喜ばせ、作硯をしてくれた。 
黄任はこの硯に自ら銘を彫り、これが後に台湾の富豪林の手に渡り、彼の没後、これ等が台北の故宮博物院に寄贈され、後に故宮より蘭千山館名硯目録として発刊されたものである。
この当時、まだ大西洞という洞名が一般的ではなく、顧二娘も老坑水岩の佳石にしか刻を施さなかったといわれていたことからも、大西洞という名は乾隆以後使用されはじめたのであろう。
あと一つ重要なことがある。 黄任や顧二娘の頃水岩の石にはまだ冰紋が無かったのかも知れない。 相浦紫瑞著の百華硯譜に乾隆期大西洞の硯に一枚だけ冰紋のある硯が見られる。 これ以前に採取された石に冰紋を見ることはない。 恐らく冰紋は大西洞ならいつでも見られる石紋ではないのであろう。 乾隆期以後見られるようになった石紋で、道光11年(1831年)開坑時、呉蘭修は見事な氷裂紋を有する硯石を得て、硯板として残し、裏面に銘を刻している。
参考までに清朝の西清硯譜が勅撰されたのは乾隆43年(1778年)であり、何傳揺の宝硯堂硯辦が初巻印行されたのは道光10年(1830年)、呉蘭修の端渓硯史は道光14年(1884年)のことである。 西清硯譜の時代に端渓硯の表現は、下巖、水坑、水岩、老坑、等があるが水岩内の洞の記載はまだない。 水岩以外では緑端、梅花坑、またはただ単に端石という記載がある。眼柱が立っている硯でも、半邊山という坑の記載はない。
乾隆以前、水岩坑は既に大西洞に達し、美麗な石が出ているはずであるが、乾隆帝はこの洞名を使用していないのはなぜだろうか。