3.譯補端渓硯史
『譯補端渓硯史』呉蘭修編 石川舜台訳
二玄社 昭和54年(1979年)
呉蘭修は道光14年(1834年)1月~3月にいたる水岩の開坑採石に際して、これを目撃して硯史三巻を編纂した。米芇をはじめ、宋代から清朝道光代に至るあらゆる端渓硯に関する諸説を集め、分類し、これに自己の見解を加えて編纂した。この書と大きな関わりを持つ書は、乾隆18年(1753年)に成った呉縄年の『端渓硯志』と、道光10年(1830年)に撰せられた何傳瑤の『寶研堂硯辧』である。とくに後者の説はこの書でほとんど全てが引用されている。
端渓硯史の刊本は数種あるとのことだが、原刊本と目されている本は『周氏校刊本』であり道光17年(1837年)に刊行された。
訳者石川舜台は東本願寺、事務総長に相当する職で、明治時代初頭活躍した僧侶である。漢籍に明るく、周氏校刊本の翻訳は大正3年8月(1914年)には稿了していた。しかしこの原稿は筐底に眠り、半世紀以上も忘れ去られていた。
最近になってこの原稿が発見され、二玄社によって昭和54年(1979年)刊行された。端渓硯古代神話を研究する者の必見の書である。
漢文にレ点返り字をつけて、白文を棒読みするがごとき訳文で非常に難解である。しかし巻末に付された原文を浅学非才ながら読み比べてみると、原文にない解説がなされていることに気付く。舜台翁も呉蘭修が引用した全ての書籍を読み直していることが伺える。漢文の読解力があって成せる訳本である。
この本の巻頭にカラー写真4枚白黒写真12枚が見られる。中に道光14年(1824年)に大西洞が開坑され、この時得られた水岩の絶品に呉蘭修が銘を入れた硯が載っている。ただし裏面だけであり、石紋の詳細は解らない。この様に経歴の分かっている硯は極くわずかしかない。
巻一は宋代の無名氏の「端渓硯譜」、米芇「硯史」、趙希鵠「洞天清録」等の説を取り上げ宋代から清代に至る端渓各坑の位置、石質について論じている。宋代の下巌の北壁、南壁、中巌の北壁、南壁の記述は「宋端渓硯誌」を引用している。そのほか上巌、半辺山諸巌が宋端渓硯誌よりの引用である。
呉蘭修は水巌(今老坑と名づく)は明の万暦(1572~1620)以降に開いた坑で、内を四洞に分つ、としている。明の成化年間(1465~1487年)に開いた端渓に、老坑という記載があるが、これは宣徳巌、朝天巌の諸巌であるとしている。すなわち下巌、水岩別坑であるかの如き説になっていて、石川舜台もこれに反論を加えていない。水岩四洞は清代の呉縄年が乾隆17年(1752年)肇慶知府の時、大西洞を開採し、これを基に5年後に『端渓硯志』全三巻が刊行された。「端渓硯坑開採図記」及び「水巌大西洞硯石説」とから成り、特に「図記」は坑道内の地勢や採石の状況が記されている。以後東洞、小西洞、正洞、大西洞の名称が定着した。清代、水岩といえば大西洞と思われがちだが、しかし最盛期の乾隆帝の時代でも水岩は4回しか開採されていない。しかも、嘉慶元年(1796年)肇慶知府廣玉が開坑した時には、大西洞石約6千塊、小西洞石約千塊を得るとの記録があり、他洞でも採石されていた記録が残っている。嘉慶6年(1801年)に水岩が開坑した。水岩が開採されると、この後で硯の解説書が現れるのは日本でも中国でも変わりはない。この後嘉慶19年(1814年)計楠が『端渓硯石坑考』、『石隠硯談』、『墨余贅稿』を刊行。嘉慶25年(1820年)には李兆洛の『端渓硯坑記』成る。又々、道光8年水岩が開採され、道光10年(1830年)何傅瑶の『宝硯堂硯辧』が刊行された。自跋に「端渓の老坑はただ一にして、雑坑は七十種を下らず。‥‥‥いやしくも同の中に於いて詳しくその異を弁じ、異の中において詳しくその同を弁ずるに非ざれば、自ずから魚目を以って珠に混ずる‥‥」と述べ各洞坑の石質を詳細に分析している。水岩各洞と山坑との鑑別を詳しく述べている。呉蘭修はこの何傅瑶の各坑道の記述、及び他の坑の記述のほとんどを自著に引用している。そして道光13年に水岩が開採され、翌年呉蘭修がこの『端渓硯史』を刊行した。
端渓硯史巻二では石品について述べられ、青花、魚脳凍、焦葉白、天青、冰紋、火奈、馬尾紋、石眼について、短文ながら呉蘭修の独自の見解が述べられている。特に大西洞に現れる特徴的な石紋についての記載は名文であり、大変参考になる。
私はこの巻の「蘭修按ずるに」、という文が好きで、大西洞についての定義をこの中に求めるている。特に青花以下の文は『図説端渓硯』でも『新説端渓硯』に於いても、ほとんど表現に変更がなされていない。
青花に関しては、
「又、按ずるに、青花は微塵(みじん)を以って上となし、鵞氄(がじょう)これに次ぎ、蟻脚(ぎきゃく)又これに次ぐ。次は則ち鵞氄結(がじょうけつ)(大は指の如く、小は豆の如く鵞氄堆聚して、外に黒線あるいは臙脂線の環する者あり。硯弁ではこれを青花結(せいかけつ)という。これ乾隆以前に開く所の大西洞に多くこれあり。近頃は則ち少なし)、次は玫塊紫(まいかいし)(大なるは豆の如し。小なるは椒実の如し。臙脂暈これを環する者あり。唯、大西洞のみこれあり)。次は蠅頭(ようとう)(毎石或いは二三点、或いは十余点、石工亦はこれを青花結という)。大小相雑わるを以って佳となす。片をなし、行をなし、枯にして燥なる者は皆重んずるに足らず」
次に天青の項に以下の文がある
「又、按ずるに、大西洞は魚脳(ぎょのう)の青花を帯たる者を以って極品となす。次は則ち焦葉白(しょうようはく)の青花を帯たるものなり。次は天青(てんせい)の青花を帯たるものなり。‥‥‥冰紋(ひょうもん)に青花を帯たる若きは乃ち千百中の一二なり。これを絶品と謂うて可なり」
次の火捺(かなつ)、馬尾紋(ばびもん)、臙脂暈の項に
「蘭修按ずるに魚脳、焦白の外に細縷これを囲み、糸々髪を理するが如き者あり。これを馬尾紋という。その外に紫気これを囲み、豓々(エン=艶の省略形)として明霞の如き者あり。これを臙脂暈という(石工これを臙脂火捺という)此れ大西洞の絶品にして他洞の無きところなり」
最も気になる項が硯直、すなわち硯の値段である。
「蘭修按ずるに、今老坑大西洞は小西洞、正洞に十倍し、小西洞、正洞は東洞に十倍す。坑仔岩、麻子坑、朝天巌を以って逓減す。然るに雑坑に較ぶるに、猶高きこと数倍」
この文を現代に当てはめてみると。麻子坑の古硯は安くても1万円はする。坑仔岩なら2万円、水岩東洞なら最低3万はするであろう。とすれば小西洞、正洞なら30万、大西洞は、なんと300万はすることになる。恐らくこれが最低の値段であろう。硯の大小もあろう、彫りの良さにもよるだろう。もし有名人の銘でも入っていれば、更に十倍してもおかしくないことになる。これは大変なことである。
眼(め又はがん)に関しては諸説あるが、石川舜台は曹秋岳の『硯録』の説の中で
「おおよそ石五十方の内、中材の者二三ならず。中材五十方の内、品貴き者二三ならず。品貴百方の内、眼ある者二三ならず。眼あるの十方の内、方円五六寸、製して硯となすべき者二三ならず‥‥‥、それ純粋縝細なる一片紫玉を求むるは、難又難、百金もくみし易からず」
これから品貴き者は恐らく百片の内一面あればよいということに成る。水岩ではこの中にも良い眼があって、方円五六寸の硯は更に少なかったと考えらる。
「蘭修按ずるに施愚山の『硯林拾遺』に云く、李譜は活眼、涙眼氏、死眼を弁ずること甚だ精し(くわしい)。唯死眼は無眼に勝るというは、はなはだあやまれり。眼活ならざれば、混雑して光採なし。無眼に如かず。端石、眼ある者、最も尊ぶはこれを鴝鵒眼(くよくがん)という」と述べ。舜台翁も「眼を以って硯材の品を差等するは、鑑家の小児のみ」
としている。
眼は水岩意外の坑にも見られる。特に坑仔岩の眼は青色で暈は七八重、黒晴活現して西洞に勝る、とも記載されている。麻子坑も高要県志に「眼暈多く略水岩より大なり」とか広東通志には「麻子坑、墨を発すること東洞の下にあらず」等の記載があり。眼は水岩だけに見られる石紋ではないことは明らかである。さらに大西洞開採以前、青花や魚脳凍、臙脂暈が現れる以前、眼の有無が硯の品位を決める基準になっていた可能性がある。下巌が坑仔岩であると言う説があることもうなずける。眼を貴重な石紋と考える曹秋岳の『硯録』の説は、坑仔岩や麻子坑で鴝鵒眼のある硯を大西洞と偽って売る、黄岡の住民の作った神話であろうか。いずれにしても大西洞硯には眼はあってもなくてもいいと考えた方がいい。即ち、大西洞の中で眼はあっても無くてもよいことになり、あるなら鴝鵒眼であって欲しい、位に考えて、眼にはあまりこだわらない方がいいようだ。
巻三には開坑についての記述がある。ここに呉蘭修の考えを示す。
「蘭修按ずるに、周氏の『硯坑志』(大西洞の開採がいつ頃から始まったかは諸説あるが、万暦説は雍正三年開坑時に入坑した梅山の周氏の説)に、治平坑を土人又称して坑仔巌という。此れに拠れば坑仔巌即ち宋代の下巌なり。宋の下巌、崇観(1102~1110年)以前より塞がる。今の水巌は万暦(1573~1620年)以後より開く。且つ其の地、相越ゆること里許りなり。譜を作る者、皆混じて一となす。宣なり(もっともである)。其の言の轇轕(こうかつ)なること」
石川舜台も
「世に宋端と称する者少なからず。而して佳者は未だ嘗てこれを見ず。青花、焦白、魚凍、若しくは猪肝色の精妙なる者は総て明以後の物なり。蓋し水巌開きて佳品初めて人間に出ず。其の唐末の旧物にして宝襲すべき者は、天上或いはこれあらん。人間終に見るべからず」
1992年4月発行の『墨』スペシャル11に、米芇の方印が刻された宋代下巌の風字硯が見られる。良く見ると硯面に青花様の紋が見られる。誰が鑑定したか知らないが、滑稽としか言い様が無い。西清硯譜には三面、米芇銘の入った硯がある。
西清硯譜巻九に
- 宋米芇遠岫竒峰硯 養性殿 宋坑雘村石
- 宋米芇蘭亭硯 熱河 宋老坑端石
- 宋米芇螽斯瓜瓞硯 下巌端石
天上にしかない硯がその辺に転がっていると言うのだろうか。この本には風字硯の他にあと一面、下巌硯が見られる。更に驚くことに唐代の端渓石の鳳池硯、この硯には武徳甲申七年(624年)趙郡考工杜敬仁造の14字が記されているという。もう一面唐代中期の緑端の鳳池硯まである。
大体、硯の年代を決定する時、その形や彫りで決められると聞く。しかし、水岩の石が全て良質であるとは限らない。石は数億年前に形成された物で、変成の状況によって、様々な石が出ると考えられる。石の質に関しては、大西洞の良質な石を除いて、いつ、いかなる場所の石かを判定することは困難であろう。又、いつの時代でも刻の名人は居るもので、少し歴史を学んでいる者の指導が有れば、いかなる時代のいかなる形の硯でも、作るのはいとも容易い。その上、どのような有名な人の銘でも自由自在、どうとでも彫れる。李白や杜甫の銘だって刻むことはいとも容易い。そのうち、王義之の銘の入った硯が出てくるかも知れない。洮河緑石硯をでっち上げた輩もその類であろう。そして悪徳な鑑定家が、これは唐代の端渓硯でございます。これは洮河緑石硯でございます。と、いえば、無知な、お大尽を騙すことはいとも容易い。しかもその鑑定家が骨董商ならば、たとえ騙されても訴えるわけにもいかない。骨董品は騙されるほうが悪いのである。この本が大正時代に発刊されなかったことを残念に思う。
この本には洮河緑石硯についての記載がある。巻二に戻るが論硯の項に、呉蘭修は自説は述べず、
唐代柳公権の蓄硯は青州を持って第一とし、絳州これに次後初めて端、歙、臨洮を重んず。好事者は未央宮の銅雀台瓦を用いるに及ぶも、然も皆端に及ばず。而して歙これに次ぐ(王世貞、『苑委余編』)。
呉蘭修はここに、臨洮なる言葉を二度使用しているだけで、臨洮に対する解説はない。
此れに対し、石川舜台は訳補で
「『洞天清禄集』はいう、端、歙二石を除くほか臨洮の緑石、北方で最も貴重す。緑にして藍の如く、潤なること玉の如く、発墨は端渓下巌に減ぜずと雖も、然れども臨洮の大河、大水の底にあり。人力の致すところにあらず。これを得れば無価の宝とす。耆旧相伝えて臨洮あることを知れりと雖も、然れども眼未だ見ざるところなり。今緑石硯の名づけて洮となす者あるも、多くは此れ黎石の表、或いは長沙谷石なり。黎石、潤にして光あるも墨を受けず」
とある。米元章は
「洮河の緑石性軟にして墨を起こさず、久磨に耐えず」
とし、あるとも無いとも述べていない。北宋の時代、米芇すら持たず、清代の欽定西清硯譜にも記載の無い、天上にすらない硯が、我が国にどうしてこれほど多く存在するのか不思議なことである。私も、かの「模造紫色硯」を手に入れた時、恐れ多くて墨を下ろすことが出来なかった。贋物と分かって、墨を下ろしたところ、全く下りず、つるつる滑るだけだった。やはり硯は買う前に一度、墨を下ろしてみるべきであろう。
巻三では開坑の状況について、二三興味ある文が載っている。
「乾隆45年、孫廉使春巌公(蘭修按ずるに孫公、名は嘉楽)肇羅道に監司たり。西洞を開採す。涓吉にあたりて穴を開く。雷雨にわかに起こり、穴中烟霧蒸騰して工人入るを得ず。すなわち文を作り山霊に祭告す。越えて三日始めてやむ。毎日汲水工二百名を集めて厚く工価を給し、昼夜代わり汲むこと九月一日より起こして十二月十五日に至りて、まさに水涸れて石を見る。歳を越えて三月朔(ついたち)、忽ち虎の来るありて犬豚を摑み食らう。日夕守臥して、これを駆れども去らず。阿護の状あるに似たり。しかも穴中に春泉湧発して、工、施すこと能わず。遂にやむ」
次は嘉慶年間の開採の状況で興味ある事が記載されている。
「嘉慶元年(1798年)八月二十七日(新暦では10月9日)、工を集めて水を取る。十一月十九日(12月29日)を以って水尽きて石を取る。明年二月二十二日(3月30日)水長じて坑を封ず。共に大西洞石六千塊有奇(あまり)、小西洞千塊を得たり。おおよそ日用の匠百人、工を用いること万七千あまり、匠の日給銭は人ごとに百二十なり。従前、石を以って工に当てる例を変ずるは、石を愛すればなり。その費えは同僚の醵金を合してこれを成す。その石は入金の数によりて均分す。余、首としてこの土に官し、この役を司り、工おわりてその事を記す。嘉慶二年二月二十二日、肇慶府知府広玉記」『広玉開坑記』
蘭修按ずるに、この石刻は水岩の外の硯神廟にあり。広玉は正白旗の人なり。乾隆59年(1794年)、肇慶府に知す。
この文から、硯が神格化されていたことは明かである。端渓硯の歴史は神話の上に成り立っているのであろう。恐らくは採掘時の難を避けるための、自然崇拝が目的にあるが、開坑して大量の良硯が得られるよう祈ったのであろう。
嘉慶六年(1801年)知府楊有源、再び坑を開く
道光八年(1828年)冬高要県丞陳詮、役を雇い水を汲む。洞仔に至り力尽きて止む。未だ西洞に至らざるなり。数百凷(かい)を拾得す。皆前人の棄余せる残礫なり。魚脳、青花、焦白なる者あり。亦墨を発すること各坑に勝る。但し色皆灰赤にして活相なし。
道光十三年(1833年)冬、端州人、水巌を開きて、工を持って賑に代えんことを請う。官保蘆琢州師これを許す。十一月二十七日に於いて工を開き、次年正月初十日石を取る。三月初十日水長じて坑を封ず。
この書の優れている点は、呉蘭修が古今の多くの硯説や資料を読み、この説を紹介した上で、自分の意見を述べていることであろう。更にこの本を古今の名著にしたのは、翻訳者石川舜台である。舜台は呉蘭修が記載しなかった、他の硯に関して書かれた資料を読み、訳補という形で紹介している。この文も名文である。この開坑の項では水岩の石を採取するのがいかに困難か、そして費用がいかにかかるか、が凡そ見当が付く。しかしこの資金をどのようにして集めたか。また採取した硯石をどのようにして分配したかがはっきりしなかったが、嘉慶元年開坑の項には、今まで工に払う給与を採取された石で払っていたが、この時の開坑では、同僚よりの醵金で、工の日当をはらうことに変えたことが伺える。
石川舜台の訳補では、李兆洛の『端渓硯坑記』を紹介している。李兆洛は嘉慶25年(1820年)硯坑を訪ね、滞在2年、この間に『端渓硯坑記』が成った。しかし嘉慶6年(1801年)から道光8年(1828年)の間に水岩の開坑はない。曰く
「おおよそ、石を採る者は先ず工を雇い、蓬廠(ほうしょう?)を塔(の)せ、糧食を設け、水罐を備え、油火を貯う。工の価、日におおむね百丈、日食一斤、先ず洞に入り水を運びこれを出す。水涸れてすなわち石を採る。麻子坑は水を涸らすに三五日に過ぎず。故に開採の工費は十余金にして即ち足る。老坑はすべからく一月昼夜輪斑して作すべし。役を用いること二百余人、故に涸水の費、すでに千金を需(もと)む。若し石を採ること両三月なれば、その費、又倍せり。採る所の石は毎日朱を以ってこれを分かち、一所に集めてこれを厳守す。得る所の石は美悪を分かたず。皆日を以って計り、主工者七日を得、諸工人三日を得。工既に終り、坑既に封ず。乃ち、くじを為してこれを分かつ。但し硯肆(けんし、硯の店)有力者即ち工を募り開採すべし。老坑は即ち必ず制府、撫軍(地方の軍事長官)主としてこれを開く。麻子坑は即ち知県これに主たることを得る。老坑は嘉慶六年に開きてより後、遂に開く者なし。故にその石は日に少なし。但し手掌大の如くにして温潤疵なき者は即ち値二三十金、その甚だ精美ならざる者も亦一二金なるべし。若し五六寸方を成して大疵なければ、即ち百金以上あり。彼の都で事を楽しむ文士及び守令(郡守や県令)、官にこの土に服する者、醵金集事を願わざるなし」
開坑するためには官の許可が必要であった。官も簡単には許可を出すことはあるまい。どれだけ工を集めたか、食や油火の貯えはどうか、特に資金がどれくらい集まっているかが最大の問題である。恐らく官に対しては大量の賂や、成功した場合の良硯の配分等を約束させられたのであろう。どうも、官は許可を出すだけで開採事業を総括していたのではなさそうだ。大金を出して石にたどり着けなければ、責任問題に発展する。開坑には誰が中心になって資金集めをしたのであろうか。工の多くは黄岡村民であったとの記述もある事から、これ等村民が中心になって、官に開坑を嘆願し、県令クラスの下級役人を統括者に定め採掘を総括させたのであろう。黄任もこのような役を命じられたのであろう。しかし黄任は後に讒訴されて任を辞している。恐らく、石の配分を巡るトラブルがあったのであろう。黄岡の住民は必死である。若し石にたどり着けなければ、これから何年か先までの生計の糧を失ってしまう。黄岡住民以外の工では数日で音を上げてしまう過酷な、排水作業が、昼夜輪番で2ヶ月以上も続くのである。しかも、径1メートルにも満たない、百メートルも続く薄暗い穴の中で、八十人近くの人が、落盤、出水、酸欠におびえながらの作業である。なぜこのような過酷な条件の中で作業が出来たのであろうか。
更に、李兆洛の『端渓硯坑記』の文からは、老坑との開採にかかる費用がどのようにして集められ、採取された石の分配方法等に関しての記述がある。この文からある推測が生まれる。乾隆42年(1777年)両広総督楊景素は開坑に三千余金を用いた
との記載がある。この当時肇慶府には硯を扱う商人がいたと考えられる。さらに黄岡村の住民は硯を作る専門職の集まる村である。しかし彼等が自分で作った硯を自ら販売していたとは考えられない。必ず商人が介在している。これ等商人が都の文人や、好事家、いわゆる硯癖を持つ人の注文を取って回ったと考えられる。この様な人から資金を集め、開坑の準備をする。恐らく1回の開坑には最低でも三千金くらいは準備しなければならなかったであろう。道光8年(1828年)の開坑は完全な失敗であったことが分かる。屑のような石を拾い集めて硯にしたが、こんな屑のような石で作った硯でも、少し良いものなら二三十金はしたという。それから5年後、彼等は起死回生の勝負に出た。もう一度資金を集め、硯を作る工人を水汲み要員に集め、日当を払い払い、出資金に応じた石の配分を受けた。
工に配分され石は、工自ら刻を施し、これらの商人に売却していたことが考えられる。亦これ等硯工は坑仔岩や麻子坑で採取された石の中で美麗な石は全て、水岩として売却していたのであろう。実際坑の中に入るのは商人ではなかった。石を知っているのは、やはり石を実際に見ている、黄岡の村民だけである。官坑とは云え、麻子坑は十余金を準備すれば許可される。県の役人に少し鼻薬をかがせれば許可が下りる。知県が許可すれば採取が出来る。坑仔岩はこの頃廃坑になっていて、官はその採掘権を放棄していたと考えられる。しかしこの坑の周辺に硯石層を探し、穴を掘って、石を得ていたことが想像される。特に坑仔岩や麻子坑では美麗な眼のある石が採取されている。水岩で眼が見られる石は非常に少ない。民間では眼のある硯が貴っとばれていたと考えられる。商人にとって、開坑しても石に果たしてたどり着けるかどうか分からず、石にたどり着いても必ずしも良石にめぐり合える保障は全くない。投資しても全く石が手に入らないことも考えなくてはならず、ある意味では賭けであったのであろう。しかし時には大量の良石が得られることもあった。それでも、青花や魚脳凍が見られる石は100に1もなかったと考えられる。それゆえ大西洞の石は、方をなし(長方形の硯)、五六寸に至る石で青花や凍がある硯なら百金以上してもおかしくはなかったのであろう。これくらいの硯が当時、どれほどの値段であったか想像も出来ない。
時には水岩が20年も30年も開かないことがある。亦、記録に残らず、石にたどり着けなかった開坑が数多くあったことも考える必要がある。しかし黄岡の村民は生き残った。
最後にこの呉蘭修の『端渓硯史』は水岩の解説書の如くに見えるが、実際は大西洞の解説書である。水岩の硯が全て他の山坑の石の硯より優れていて、端渓の歴史は水岩の歴史であるとする、相浦紫瑞氏の意見には納得できない。確かに大西洞と比較したらその差があるのかも知れない。しかし大西洞だからと言って、全ての石が美麗だとは限らない。大西洞以外の洞の硯は坑仔岩や麻子坑の良石に劣ることもあったと考える必要がある。即ち、大西洞以外の水岩は山坑の良質な石と鑑定が難しいとするのが、呉蘭修の意見であると考えるのは間違いであろうか。