資料3.写真解説

写真1 硯面外観―1 大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯 28.3×13.9×2.5cm 

 偏光撮影ですが、カメラは45度上方より撮影しています。下にカラー板を置いてあります。この写真はフォトショップで色を調整していません。硯の持つ青紫色が良く表現できています。大西洞の石は太陽光で見る時は少し明るく見えます。太陽下でも、正午頃と夕方では色が違って見えます。大西洞の硯は光によって色が異なってみ見えるのが特徴のようです。その他の硯石は色に変化がないように感じます。この写真は夜間蛍光灯の下で水でぬらした時の色です。

写真2 大西洞水岩板硯裏面

 偏光撮影をするとこのような写真になります。即ち刻を正確に写すにはこの撮影方法は適していないようです。

写真3 大西洞水岩板硯 全面―1

 カメラを直上にセットし偏光撮影した写真です。この写真もフォトショップで加工を加えていません。硯全体が青紫色です。上方に左上から斜めに石質に境界があるのがお分かりでしょうか。この線より上方は焦葉白で、下方は天青色です。完全な形の玫塊紫青花が1顆、不完全な形のが2顆見られます。下方に魚脳凍及び砕凍が見られ、この中に典型的な青花結が見られます。上に天眼を模した翡翠があり、この周囲を臙脂暈が取り囲んでいます。臙脂暈は各玫塊紫青花の周囲にも見られ、まさに教科書通りです。
 臙脂暈は天青の周囲、硯の両端にも見られ、この色が典型的な臙脂暈といえます。この硯には後で拡大写真を見ると分かりますが、ありとあらゆる青花があります。その他に金線も現代水岩のような裂隙様では無く、細くすっきりしています。魚脳砕凍の下にある白い線は蜘蛛の巣状で冰紋凍と考えていますが、専門家の先生方は違うと言うかもしれません。

写真4 大西洞水岩板硯 上部拡大写真

 この写真はフォトショップで色を白目に調整してあります。丁度正午頃水に沈めた時に見られる色調です。大西洞の石はこのような操作を加えても色のバランスが崩れることがありません。現代の水岩または麻子坑や坑仔岩はこのような操作では不自然な色が生じてしまいますので、わずかに露出補正、カラーバランスの調整が出来るだけです。大西洞系の石は紫色がきれいに出るかどうかが重要な鑑別ポイントになると考えています。
 まさに青花のオンパレードです。黒く斜めに入った線状の青花を見て、この硯は麻子坑の織席紋でしょうと言った専門家が一人いました。この人は本物の大西洞硯を見たことが無かったのでしょう。この線状の青花の左右にボカシの様な、シミの様な黒い班があるのがお分かりでしょうか。これは微塵青花です。硯面に白い点状、または棒状の斑が見られますが、これは蟻脚青花です。典型的な玫塊紫青花の他、蠅頭青花、青花結が見られます。
 硯面を上下に分ける線は、この写真では明かに見られ、上は焦葉白、下は天青と明かな境界線です。実はこの線は実体顕微鏡では見ることが出来ません。実体顕微鏡の焦点深度が非常に浅い為と考えています。それに引き換え写真機で撮る場合、絞りは5.6ですので、ある程度被写界深度があります。ですから石の深部までの色を反映していると考えられます。大西洞の硯石の結晶の透明度が高いことも一因と考えていいと思います。
上下を分ける線は、硯石の形成過程で上と下の圧力に差があったか、または2種類の石が合体したのか分かりません。しかし青花の分布を見ると上と下で差がありません。境界線をまたいで存在する同じ青花もあります。焦葉白と天青を分ける境界線が形成された時期と、硯全体に青花が形成された時期とは異なっていると考えられます。 この事から大西洞硯石に起こった変成は1回だけではなく、複数回であったことが考えられます。
 また翡翠紋はこの写真では境界がはっきりしているように見えますが、実体顕微鏡下では境界ははっきりしません。実体顕微鏡写真を参照して下さい。

写真5 大西洞水岩板硯 硯上部拡大写真

 写真4上部を更に拡大したものです。玫塊紫青花と青花結を拡大して見ました。このように偏光撮影技法は最近のデジタルカメラの質の向上で、現像、焼付け、スキャナーで読み込むと言う作業を取り除いてくれるようになりました。更に35×24mmサイズのFXフォーマット形式のメモリーを持つカメラで撮影すると、原画のサイズはA3判大ですので、新聞紙を開いた、全倍サイズに拡大しても粒子荒れが起こりません。即ち硯面を約50倍に拡大した写真が得られるということになります。これ位拡大するともはや実体顕微鏡の写真に匹敵します。端渓硯の石紋の研究にはこの撮影方法が非常に有効であると考えられます。
 典型的な玫塊紫青花とこれを取り巻く臙脂暈はまさに教科書的です(呉蘭修の『端渓硯史』及び相浦紫瑞著『図説端渓硯』さらに劉演良著、廣瀬保雄訳の『新説端渓硯』を加えた三冊がは大西洞水岩の教科書と言える書物である)

写真6 大西洞水岩板硯 硯中央部の拡大写真

 典型的な魚脳凍が見えます。この上にもう少し拡大すると良く分かりますが雨霖墻青花が見られます。この青花はこれ位の色でないと見ることが出来ません。皆様お持ちのコンピュータで拡大機能があったら拡大してご覧になってください。又玫塊紫青花の直ぐ左脇に小さな翡翠点が見られます。これは拡大すると眼のようにも見えます。金線は細く、あくまでも黄色く品があります。右脇には小さな黄龍も認められます。またこの臙脂暈の色はしつこさが無く、品があり、まさにうっとりとさせられる美麗さです。呉蘭修が大西洞水岩の乾隆期以前の臙脂暈は絶品と言っている意味が良く分かります。

写真7 大西洞水岩板硯 硯中央部、フォトショップで色を調整した写真

 写真6の魚脳凍は色がわずかに黄色味を帯びていました。フォトショップでこの黄色味を取り除き、魚脳凍を出来るだけ白く表現しました。このように大西洞の石はフォトショップで色を様々に変えて観察することが可能ですが、新水岩硯石は一部を除いて、この作業で色を変えようとすると不自然な色に変わってしまいます。大西洞以前の古硯の水岩硯が無いのではっきりとはいえませんが。大西洞水岩硯と現代水岩硯は写真で見ると明かな差があります。即ち水岩は採取された場所によって石質が大いに異なっていると考える方が良い。採取された時代は関係なく、採取された場所の違いである。

写真8 大西洞水岩板硯 硯中央部から下部の拡大写真

 この写真では魚脳凍と魚脳砕凍及び、この中に見られる典型的、教科書的な青花結に注目してください。呉蘭修はこの紋を次の如く表しています。
 曰く「鵞氄結(がじょうけつ):大は指の如く、小は豆の如く、鵞氄堆聚して、外に黒線或いは臙脂線のこれを環する者あり。硯弁はこれを青花結という。此れ乾隆以前に開く所の大西洞に多くこれあり。近頃(道光代)は即ち少なし」と
 この説に拠るならこの紋は明かに青花結である。黒線が環している典型的な青花結である。
 次に天青の項で「又按ずるに、大西洞は魚脳の青花を帯たる者を以って極品となす」
 冰紋の項で「蘭修按ずるに白暈縦横して、痕ありて跡なし。かかること蜘網の如く、軽きこと藕糸の如し。これを冰紋という。又は冰紋凍と言う。即ち大西洞も亦多くあらざるなり。他洞の白紋は線の如くにて、たまたま毫頴を損す。たっとぶ所にあらず」
次の更に角大した写真9を見て欲しい。現代の冰紋と称する紋は裂隙を埋める粘土鉱物であり、裂隙なるが故に筆の尖がこの部に挟まり、当然の事ながら毫頴を損することになる。

写真9 大西洞水岩板硯 硯下部のみ更に拡大したもの

 この原版でもプリンターでA3ノビ大に引き伸ばしても粒子荒れは見られない。
最近のデジタルカメラの発展には目を見張るものがある。
魚脳砕凍はあたかも空に浮かぶ雲の如く純白である。この中に典型的な青花結が認められる。この青花結をコンピュウーター上で拡大すると、実体顕微鏡で約80倍にして見た像と同じになる。黒線の外側にもう一重の臙脂色の線も見られる。このような文明の利器の無かった時代、呉蘭修は良くこの線を見分けることができたものと感嘆するより他はない。
 次に魚脳砕凍の下に縦横に走る白い線に注目してください。現代の水岩の冰紋と称する紋はただの裂隙を埋める黄色い結晶であって、呉蘭修言うところの冰紋でないことは確かである。現代の硯作家、中国工芸美術大師(日本の人間国宝)の称号を持つ黎鏗師の硯を参照して下さい。この硯は1972年水岩が再開された折、清代の大西洞の延長上で採取された石とのことであるが。ここに冰紋凍が見られる。まさに蜘蛛の巣状であるが、これとて現代冰紋である。この大西洞古硯に見られる白い線状の紋こそ真の冰紋と言っていいのではないかと考えるが、我田引水であろうか。

写真10 大西洞水岩裏刻部分

 この写真も偏光をかけて撮影したものである。この為硯の色は実際の色とほぼおなじである。裏面は硯面と比べ明かに質は劣る。裏面では大きな硯の製作は出来ないであろう。青花はあるが典型的な形をしたものは無い。しかし臙脂色は全面に出ていて明るい。刻は典型的な浅彫りで、川の波の毛彫りも見事である。相浦紫瑞著の『百華硯譜第二集』では、浅彫り、毛彫りが乾隆期の特徴と述べられている。
 この面ではきれいな黄臕が眼に付く。黄色ではなく赤味の加わった色でより鮮明である。気になることは、この黄臕のある部分の裏に魚脳凍や臙脂暈がみられることである。
私は青花や魚脳凍等の石紋は黄臕と関係があり、黄臕なくして形成されない。という考えを持っていた。しかしこの大西洞水岩板硯の硯面の近くに黄臕がなかったので疑問に思っていた。しかしこの黄臕が裏面にあったのである。左側の黄臕は反転させると、きれいな臙脂暈である。この黄臕は上に伸び、この裏に玫塊紫青花や翡翠紋がある。更に下に横に走る黄臕の裏面に魚脳凍がある。このように黄臕は水岩の各種石紋と非常に関係が深いことが想像される。また、この硯の黄臕は爪でこすれば剥がれ落ちるような粘土状ではなく、結晶化して、更にガラス化している部分も認められる。五彩釘と呼ばれる大西洞にしか見られない石紋がある。白黒緑黄朱の五色が出ているものを言うのだそうだが。この黄臕は朱の混じた黄色の五彩釘と言えなくもない。これ等の石紋は変成の起こった時の温度が非常に高かった事が想像される。もう少し温度が上昇すれば岩石は溶けてマグマ状になっていしまう。この寸前まで上昇していたと考えられる。
あと一つ、上方の斜めの段差に注目して下さい。この裏面が焦葉白と天青を分ける境界線に一致するようだ。この石は本当に2つの異なった状態の石が高温で合体したのかもしれない。

写真11 大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯の拓本

 硯の美は本来石質が決めると言っても過言はない。硯工はその石の最良の部分を硯面にする。大西洞でも稀にしか見られない魚脳凍や青花、臙脂暈まで見られる美麗な石に刻を加えることは出来なかった。硯板で残すことにして更に方硯で残すことにした。もし裏面の石質も最良な石紋が出ていれば、この面も硯板としたであろう。しかし裏面には多くの黄臕があり硯に作ることは難しかった。 そこで裏面全体の彫琢を選んだ。山水画は中国人が好む題材である。この山水画を拓本にとって見たいと思ったのはこの硯を購入してから1年を経過していた。小林徳太郎著の『拓本技法・精拓の採り方』を見つけて、拓本の採り方の勉強を始めた。 拓本が簡単に出来ると思ったのは大間違いで色々な器材をそろえなければならなかった。自分で作らなければならない器材があった。タンポである。この本の作り方に従って作ろうとしたが、布や綿、心に入れるウレタン等々、全て自分で集めなければならない。更に大小の違いのある物、硬さに違いのある物等いくつも用意しなければならない。しかも1回で使い捨てである。問題は紙であった。この本では和紙は拓に適していないとの事で、やはり中国製の宣紙「浄皮棉連紙」、「浄皮羅紋箋」、「浄皮単箋」が適していることが分かったが、地方の書道専門店には置いてある店は無かった。ようやく東京神田の清雅堂に81年物の四尺浄皮棉連が見付かった。ついでに神田神保町の本屋街の先にある山田刷毛店を見つけて、打ち込み刷毛を数本購入出来た。また拓本を採るには紙を被拓物に貼り付ける糊が必要である。米で作った糊など使うわけには行かない。「白及(びゃっきゅう)」という漢方薬を煎じて作るのである。こんな漢方薬も普通の薬局では手に入らない、取り寄せてもらう必要がある。全ての拓本用器財が揃うまで半年を要した。しかし初めからこの硯の拓本採りに挑戦するのは無謀であった。最適な練習用被拓物が我が家にはあった「模造紫色硯」である。この贋物硯の表面は平らで、上方に2匹の龍が珠に戯れる図、下半分には2羽の鳳凰が牡丹に戯れる図が刻されていた。浅彫りで拓本を取るには最適なものであった。閑がそれ程ある身ではない。生涯労働者である。どうにかこの大西洞に挑戦できる自信が付くまでにはやはり半年を要した。
 さて、大西洞水岩の裏面の拓本採りである。ます、硯面を下にしなければならない。硯面を傷付けるわけには行かない。ウレタン樹脂を下に敷き、周囲もウレタン樹脂で覆うような台を作り、ここで操作を行うこととした。 使用する都度糊とタンポを新たに作らなければならない。墨は油煙墨を使うことにした。
 コツはタンポにどれ位の墨を付けて打つかにかかっている。べつの紙に何回か打ち付けて色の濃さを調整した上で硯拓の紙に墨を置いていく。1ヶ所失敗しても初めからやり直しである。満足な作品を作るのに約1日を要した。何回か失敗している内に川で漁をする漁師の上には墨を置かない方が朝霧を表現出来ることに気がついた。最終的に出来上がった拓本がこれである。何回も拓を採って硯を傷つける分けにはいかない。拓本を採り終わった硯は数日水の中で糊を落としてから函に収めた。これ以上の作品を求めるつもりは無い。

写真12 黎鏗刻 龍鳳呈祥硯 硯面 33.5×23.0×3.0cm

 巨大な新端渓水岩大西洞の石である。この硯は帯淡青淡紫色で、確かに不完全ながら玫塊紫青花、青花結等の青花が見られ、下部の冰紋は黄色い成分は少なく、また裂隙の無い事から冰紋凍と言っても良い紋である。上部の臙脂色は暈と言っても良い紋である。魚脳凍はないが全面焦葉白で、上部に青花が集中して見られる。中央の濃い臙脂色の部分は火捺と言ったほうが良いかもしれない。小さな緑色五采釘は大西洞の証である。

写真13 同裏面 1994年12月に製作された事が分かる

 この硯は中国の工芸美術大師 黎鏗氏の作品で1972年再開された大西洞で採取された甲級の石で製作されたものである。氏の鑑定書も付いている。 曰く
  端渓坑別 老坑大西洞 甲級
  品名   龍鳳呈祥硯
  規格   13寸
  作者   黎鏗
  備考   該硯為端渓大西洞石材、純浄嬌婌、有青花、火捺、玫塊紫、金銀線
       天青、魚脳凍、等優質石品。雕刻細致、層次分明、龍鳳互相呼応、瑞
       気祥雲是一件好的端硯作品。
  鑑定人  黎鏗 印
          1996年2月23日
 硯の製作は1994年12月である。この硯は同じ年、日本の駐広州総領事館の小森総領事が大西洞老坑を訪れた際、国営の端渓名硯廠の廠長の黎鏗氏が自ら、特別に大西洞硯石を採取し小森総領事に呈した石と同じ時に採取された大西洞の原石で、黎鏗氏が銘を刻んだ板状の硯石の原石である(写真14、15参照)。黎鏗氏の硯は高価であった。本当はこの原石だけが欲しかったのであるが、向こうも商売上手な中国人。黎鏗氏の硯を購入してくれればこの石を付けましょうと言われ、黎鏗氏の龍鳳呈祥硯と一緒に購入したものである。裏面の大きな緑色の五彩釘は大西洞の証と言って良い。黎鏗氏自ら刻したであろう事は彫りの見事さからうなずける作品である。しかし裏面にも見られる金銀線は現代の水岩の特徴的な石紋である。魚脳凍も焦葉白と区別出来ず。いわゆる教科書的な大西洞の石紋は少ない。

写真14 現代大西洞水岩の原石 21×14×3.2cm

 1994年12月、日本の駐広州総領事の小森氏に進呈された硯石と同じ時に採取された原石で黎鏗氏の銘文が刻されている。この原石は色が帯淡青淡紫色を呈し、冰紋が蜘蛛の糸の如く錯綜して見られる、現代の冰紋は裂隙を埋める黄色い粘土鉱物であるが、この石の冰紋と思われる紋の色はほとんどが白色である。中央部に焦葉白があり、この周囲に臙脂暈または火捺が押しやられるように取り巻いている。一部は馬尾紋様に見える部もある。青花は無いが、左端には赤色の五彩釘が見られる。周辺の黄臕を削り取ると、銘文を刻した部の如く平坦な面が出来ることが黄臕の特徴であろうか。この面を実体顕微鏡で覗くと間違いなく雲母様の光沢が見られる。黄色い部分も微細な結晶である。
 この頃既に大西洞では特別な場合を除いて採石していないことが伺える。この頃以後大西洞からは採石されず、旧坑道で大西洞手前に硯石層を見つけ、ここを明代の傍坑状に掘り進めていたらしい。2000年以後ここ水岩坑での採石は中止され、端渓川の西江合流部に堰堤を築いて、水岩を水没させて、採取不能にするだけでなく、坑仔岩、麻子坑の坑道を爆破し、更には端渓地区一帯からの硯石採取を禁止してしまった。恐らく今後数十年、いや数百年この水岩が開かれることは無いであろう。水岩の歴史はここで永久に閉じられることになる可能性がある。とすればこの石は大西洞の延長上の坑道で採取された最後の石になる可能性が出てきた。コンピューターの発展は筆で字を書くと言う文化を全く消滅させてしまった。今後書はお寺や芸術的な分野等、極く限られた場所でしか利用されることが無くなり、多くの良硯は過去の文化を代表する遺産として博物館や記念館に残されて行くことになるのだろう。

写真15 写真14の黎鏗銘の部分の拡大

 銘文「甲戌冬階(?)薛立亜先生張恵敏女士遊端渓老坑大西洞得佳石留念此石質地細賦幼嫩滋石品名貴為諸硯石之珍品也。 中国工芸美術大師 黎鏗銘」
 ここで甲戌は1992年であり、冬は、坑道内の水をポンプで排出させるのは西江の水が減水する冬であるから、12月ごろと考えて良い。この時広州総領事小森氏が薛立亜先生の案内で、張恵敏女士という通訳を伴って水岩を訪れ、坑道の奥大西洞まで案内されたのであろう事が考えられる。しかしここになぜ小森総領事の名前がないのであろうか。小森氏には採取されて、加工されていないままの原石が呈されたかどうかは明かではない。恐らく、このように加工して硯板状に整えられ、小森総領事に謹呈と黎鏗氏の銘が入っていたのかもしれない。後日送られたのであろう。こちらの硯は対硯として作られたものかもしれない。

写真16 坑仔岩-1

 この写真も偏光撮影て撮ったものである。実はこの硯の場合太陽光下でも水に沈めた時も余り変化が見られない。この写真はフォトショップで紫色を出そうとしたものである。紫色を出すにはフォトショップでこの写真を選び、イメージ→色調補正→カラーバランスを選択し、中間色でシアン系をわずかにレッド系に引き、マゼンタは不変、イエロー系をわずかにブルー系に引くと出てくる。しかしこの写真の如く紫色を出そうとすると色が暗くなり、赤系がどうしても混じってしまう。大西洞ではこの赤系の色が残らないため、紫色が鮮やかである。この硯には火捺が見られるが臙脂暈はやはり見られない。青花らしい紋はあるが典型的な紋ではない。中央部分は焦葉白と考えられるが、明るさが無い。刻は稚拙であるが、瓜様で下部に蟹を配している。下りも良く発墨も見られ常用とするには良い硯であろう。

写真17 坑仔岩―2

 この硯は坑仔岩といわれて購入した新硯である。色は帯淡青濃紫色で、紫色が比較的出ている硯である。硯面を拡大していくと、網目状の濃淡が見えてくるので、麻子坑の硯では無いかと思っている。麻子坑という坑名は何傅瑶の『宝硯堂硯弁』に初めて紹介されたもので、織蓆紋(しょくせきもん)と、極めて長い青花が麻子坑の特徴と述べられている。坑仔岩と共に大西洞硯に似ているとの記載がある。俵を織ったような紋との事だが、実際これが織蓆紋と呼べる石紋は見た事が無かった。この硯には硯面に小さな翡翠点が見られるが、典型的な青花や火捺は見られない。色は紫色が出るので水岩系の石と考えられなくはない。ただし現在の水岩でないことだけは確かである。刻は上部は魚をつかんで飛ぶ鷲の図であるが下部はなす状の模様と波間にはねる二匹の魚を刻し、図は稚拙であるが、下りは良い部類に属する。

写真18及び19 麻子坑

 恐らくこれが典型的な麻子坑の硯であろう。特に裏面(写真19)には極めて長い黒い青花が見られる。この紋は麻子坑特有の紋との事だ。更に拡大していくと網目状の黒い紋が見られる。恐らくこれを織蓆紋というのであろう。このように織蓆紋は偏光撮影した写真を引き伸ばせば見ることが出来る。今から約200年前の人が良くこの紋を見つけたものと、歓心する。虫メガネでも持っていたのであろうか。
 実はこの硯に見られる長細い青花と同じような紋が大西洞水岩(写真1~6)に見られる青花に似ているとの事と、大西洞硯でこれほど大きな方硯は採れないはずだとの事で、この硯を麻子坑と鑑定した人が居る。実際この硯を見たわけではなく、写真を見ての鑑定であったが、この鑑定家は恐らく乾隆期の大西洞硯を見た事が無かったのであろう。硯の鑑定は実際本を読んだ位では到底出来るものではない。。時代や産出坑名が分かっている硯は皆無と言って良い。いかに多くの硯を見ているかだが、それとて、確実に何年物の何坑の石だ、などといえる硯は極くわずかである。ただし採取年は分からなくても大西洞硯だけは、石紋を頼りにすればどうにか鑑定できるかも知れない。大西洞以外の水岩と、いわゆる山坑の石の鑑定は難しいように感じる。

写真20 水帰洞板硯、17.2×11.5×2.7cm

 この硯は錫の函に入った、珍しい板状の硯で、外見上は黒一色、硯面は滑らかであった。店主は清代水帰洞の石という。水帰洞といえば大西洞より深い坑名、位しか知らなかった。この頃私は板硯は石質の良い物が多いという説に従い、この板硯のみを狙っていた。古硯である事は確かだったので購入した。しかしこの硯は墨のおりがまことによろしくない。表面に蝋でも塗ってあるのかと考え、消し炭でこすったら、おりが良くなって安心した。しかし後日偏光撮影技法が開発されたのでこの写真を撮ったら、臙脂系で、軽く紫色の入ったきれいな色が出てきた。黄竜紋以外に石紋は見られなかったが。この硯を拡大していくと次の写真 21の如く織蓆紋が現れて、水帰洞硯ではなく麻子坑と判明した硯である。

写真21 この拡大写真

写真22 新水岩瓜刻硯 28.8×22.7×2.6cm

 この硯面にはやたらと冰紋が走り、冰紋凍と呼ぶには風情がない。中央を2分するように走る黄竜様の紋の周囲に翡翠紋が見られる。又冰紋の周囲に白く魚脳凍様の紋が見える。この硯を購入した理由は、これらの石紋の形成過程を知る上で貴重な紋がいくつか見られた為である。すなわち大西洞の石紋形成には黄臕と金線等の亀裂が重要な役割を果たしていると考えられるからである。この硯で言うなら亀裂を埋める黄赤色をした紋の周囲に翡翠紋が発達していることである。恐らく翡翠紋は3価の鉄イオンの多い雲母鉱物であろう(これは私の想像です)。熱水によって運ばれた様々な金属イオンが雲母内に取り込まれて発色していると考えられる。即ち亀裂の周囲に魚脳凍様の白い紋が出来、更に押しやられるように、この周囲に臙脂暈や火捺が決まって見られるのである。。
 この硯の石紋はお世辞にもきれいとはいえない。しかし刻はかなり高度な技術を持った人の作品で、線がシャープで輪郭がはっきりした図にまとめられている。函には黎鏗の銘が入っているが、彼の作品ではないと考えられる。

写真23 新水岩瓜刻硯裏面

 裏面には典型的な金銭火捺が一個見られることである。中央部分には火捺が見られ、この周辺に冰紋が取り囲むように見られる。下方には焦葉白が見られる。この部分は拡大すると非常に興味ある現象が見られる。次の写真 24参照

写真24 同23の拡大写真

 臙脂暈に囲まれた典型的な金銭火捺に注目。周囲にはこの金銭火捺になりきれなかった紋が2つ見られる。白い部分は焦葉白でこの中に青花結、雨霖墻青花が見られる。冰紋の周囲に翡翠紋が発達している。 もう一つ重要な現象は、焦葉白と火捺の境界部分である。境界部分は非常に鮮明な黒い線が見られ、一部は馬尾紋様である。この黒い線の周囲を臙脂暈が取り巻いている。この部分を見ると火捺の黒い部分は青花と同じ種類の結晶の集まりである事を疑わせる。又火捺の成分で、二価の鉄イオンの減じたものが臙脂暈である事も疑わせる所見である。この石紋は、もしこの煩雑な冰紋が無ければこの部分だけでも、立派な大西洞水岩といえるのに、残念なことである。しかし新水岩にも時には稀に、このような石紋が現れることがあったのであろう。ことによると開坑当初の硯石は、本当に清代の大西洞に似た石が出たのかもしれない。

写真25 明坑水岩板硯 13.7×9.0×2.2cm

 この硯板は明代の水岩といわれて購入した小さな板硯である。とりあえずこの面を表としてみた。下部周囲に強い黒色の火捺が見られ、これは鉄捺と呼ばれる石紋で、明代後期から清代初期の硯に見られる特徴的な石紋である。中央部分は焦葉白で、中に不完全ながらいくつかの青花も見られ、水岩系の石と考えて良い。民末にするか清初にするかの問題であるが、この硯の函はかなり古い。亀裂が入っているが紫檀故にまだ割れずに残っている。頻回に使用されたであろう事はこの箱の底の墨の付着で想像できる。とりあえず、明末の水岩とした。この写真でもフォトショップでどうにか臙脂暈が出ないものかと、調整した結果こんな色になってしまった。しかし臙脂色が出ることは確認できた。

写真26 明坑水岩板硯裏面

 この硯は右半分が強い鉄火捺が覆っている。左半分は焦葉白で、不完全な形の青花が見られる。この境界付近に1本の金線が走り色は黄赤色で周囲に翡翠紋を発達させている。この面でも鉄捺と焦葉白の境界付近にきれいな臙脂色が現れている。この色は肉眼では見ることが出来ない。

写真27 新水岩板硯表 21.0×14.3×2.6cm

 新水岩の板硯で、比較的大きな硯材にもかかわらず、彫琢を施さずに板硯にした理由が判らない硯である。色は帯淡青淡紫色が出ている。小さな翡翠点と青花が1ヶづつ見られる他、冰紋だけである。現代水岩を象徴する縦横に入り組んだ金線とも冰紋とも取れる紋である。白色または黄色の線で、この硯には線周囲の焦葉白や翡翠が見られない。
硯石のサンプルとして購入したものだが、これに刻を加えて硯に作るにはどのような構図がいいのだろうか。こんなことを考えさせられる大きな硯材である。

写真28 新水岩板硯裏面

 この面には冰紋の周囲に魚脳凍様の紋が発達していて、青花も見られ、一部は焦葉白とも見える紋があり、硯に作るにはこちらの方が適しているように思う。この黄臕は黄赤色をした特徴のある紋である。下方にわずかに見られる。

写真29 30 新端渓水岩

 この硯を買ったのは1990年摸造紫色硯をもらって、硯に関する本を集め始めた頃で、呉蘭修の『端渓硯史』の、石川舜台訳本『訳補端渓硯史』は購入して、まだ間もなく、まだ硯について全く知識が無く、端渓硯と歙州硯の区別がようやく分かる位の段階で購入したものである。書道店のジョーウィンドウに新端渓水岩と書かれて並んでいた。この店では傷物の麻子坑硯を5000円で購入して、次いで古硯と思われる歙州硯を購入し、常用として使っていた頃のことである。水岩硯は高くて手が出せない物と考えていたが、新端渓という意味が1972年水岩が開坑して、これ以降、ここから採れる石である事を始めて知った。高価で手が出ないと思っていた硯が、こんなに安く手に入るのかと驚いて、直ぐ手が出てしまった。しかし安物買いの何とかで、この硯は誠に墨の下りがよろしくない、歙州硯より、麻子坑より、更にガラクタ屋で見つけた100円の雨畑古硯よりも悪い。よくよく見ると彫りも稚拙である。2匹の竜を彫っているらしいのだが、竜だか雲だか全く区別が付かない。金線、翡翠紋が見られるのみで、現代水岩の特徴も全く無く、他坑の石と考えている。どこの坑の石か、今も想像できない。

写真 31 新水岩石片

 この石は硯石のサンプルの中で見つけたものである。冰紋と其の周囲に発達する魚脳凍に興味があって購入し、家で右側と下部を削って石の層を見ようとしたものである。魚脳凍は表から裏まで連続しており、この中に1本冰紋だか金線だかが走っているのが見える。やはり魚脳凍様の紋は金線や冰紋と無関係ではないことが分かる。

写真 32 33 新水岩石片 墨池に改造

 この石もほぼ四角形に近い石片であった。石の層を見るべく周囲を削り小判型の石になった。ゴリゴリ削っているうち一部がはげてしまったので、セメンダインで貼り付けこちら側の加工は止めにした。反対側の面に特別貴重な紋が無かったので、こちら側を削って硯にしようとした。彫刻刀を買い込み、ゴリゴリ削ったが、素人に硯が出来るはずが無い。最終的には墨池になってしまった。この墨池は大量の墨を貯めて置けるので太筆を使って字を書くときには便利である。色は黒味がかった紫色で、冰紋と青花が1ヶ出ている。裏面は赤味が買った黄龍紋と魚脳凍らしい紋が出ている。セメンダインの跡はあたかも鉄線ようである。気に入った書道用具の一つになっている。

写真 34 端渓硯石見本―1

 端渓硯12坑の硯石サンプルである。老坑、坑仔岩、麻子坑、宋坑、古塔巌、梅花坑、朝天巌、白せん巌、浩白巌、かんら焦、沙浦石、緑端、これに我が家にあった輝緑凝灰岩の文鎮の破片を偏光撮影技法で撮影したものである。自然光下では緑端を除いてほとんど区別が付かない。しかしこの撮影では写真の如くいくつかの特徴的な硯の色や石紋から容易に鑑別が出来ることが分かった。驚いた事にまず宋坑の石がこれほど茶色系に出るとは思いもしなかった。次いで浩白巌も茶色がかった色である。梅花巌はむしろ緑色が強く出ている。緑端と4坑の色は老坑とは全く異なった石である。次に朝天巌の色も茶系が混じっていること、かん羅焦、白せん巌には火捺があるようだが色が全体的に白いまたは淡い。差が出ないのは老坑、麻子坑、坑仔岩、沙浦石、古塔巌の5坑である。輝緑凝灰岩は粒子が粗く、到底硯に出来る石でないことは分かるが、この石も茶系を帯びている

写真 35 端渓硯石見本―2

 老坑、麻子坑、坑仔岩、古塔巌、沙浦石、朝天巌、白せん巌に別に買った新水岩の硯石サンプル2枚を加えて撮影したものである。まずこのサンプルが本当にその坑の石かどうかを疑ってかかる必要がある。なんせ、騙す人悪くないと言う国の人が作ったものである。又坑名が確かとしてもこのサンプルが坑特有の石かどうかも考えなくては成らない。更に、彼らが言う老坑と言う坑の定義がまず不明である。大西洞以外の水岩と捉えていいかどうかが分からない。いずれにしてもこの撮影技法では、老坑は麻子坑、坑仔岩、古塔巌、沙浦石との鑑別は難しいことが分かる。後は特徴的な石紋、石色等から総合的に鑑別しなくてはならないのであろう。 
この撮影をして現代沙浦石が水岩や麻子坑、坑仔岩の名を騙って売られている理由が解かった。ただし現代水岩(老坑か?)は冰紋等の石紋で鑑別は可能のようだ。

写真 36 沙浦石と思われる硯

 これはあるとき骨董市で偶然見つけた硯である。箱は紫檀の現代物なので古硯とは考えられない。2個の大きな翡翠点または緑豆眼が眼を引く。黄臕があるので斧柯山系の石らしく思える。しかし石紋は全く見られず。斧柯山系特有の臙脂系の色も出ない。下りは悪く、発墨しないことから一応沙浦と考えているが、この緑豆眼様の紋が気になる。右側面に爪でも剥がれ落ちる黄臕が見られたので、思い切ってこの黄臕を削り取ってみたが、下は白味がかった、何ら石紋の無い単色の面であるが、汚らしい黄臕の面よりは見栄えが良くなった。沙浦以外の坑の石かも知れないが、水岩系の石ではない。彫りは、松樹に祥雲と波を配し、力強い。裏面も一応硯の形態をしている。ただ飾っておくにはいい硯である。

写真 37 歙州硯

 私の常用硯である。偏光撮影をするとご覧の如くになる。偏光撮影はある一定方向の反射しか写って来ないため、歙州硯特有の水波羅紋は消えてしまう。又彫りも反射が抑えられるため平坦な、力の無い写真になってしまう。この硯には水波羅紋のほか下方には暗細羅紋があり、下りも良く、発墨もあり、特に着墨しないので後始末が楽である。端渓硯は墨を磨ってしばらく放置しておいて、墨が乾いてしまうと、2~3日は水の中に漬けておいて、更に丁寧に洗わないと着墨が取れない。画を描く人は端渓硯の墨の粒子の方が細かいため、微妙な色が出しやすいと聞く。しかし字を書く人にとってはそれ程差はないとも聞く。私は画も書かないし、字もいくら書いても上達しない。他人に見せられる字には一生なれそうに無い。

写真 38 松花江緑石

 清民族の発祥の地より産出される石で、清朝では官硯として用いられたようだ。粘板岩の硯である。この硯も偏光撮影技法ではかえって色を減じさせてしまい、きれいな像が出にくくなる。彫りは端整で品がいい。墨の下りも悪くはない。雨畑硯に似た感触である。

写真 39 40 雨霖墻青花硯と言われて購入した硯

 この硯には白い色をした紋が雨霖墻青花の如く見られる硯である。教科書に拠れば雨霖墻青花は黒い班である。金線が縦横に走っていて、裏面には火捺と非定型的ではあるが青花も認められた。色は水岩様ではないが、現代水岩特有の石紋だった。白い雨霖墻青花など聞いた事も無い。見るのは初めてなので、もの珍しさで購入した硯である。この紋は『図説端渓硯』で言う、蛤肚紋青花という紋らしい。ところがこの硯はとんだ食わせ物で、実体顕微鏡で見て驚いた。小さな孔が無数に硯面全体に見られるのである。この硯は1回墨を下ろしたとたん着墨で真っ黒になること請け合い。怖くて墨が下ろせない。現代水岩にはこんな硯もある事を念頭に置く必要があるということか。

写真 41 模造紫色硯

 1990年正月、先輩の奥さんから頂いた硯。重くて女性には扱いにくい硯との事で頂いた。当時硯を見たこともない人間にはこの硯は国宝級の名硯に見えた。特に左右の側面になにやら文字が刻んである。見たことも無い文字であった。早速本屋に行き『朝陽字鑑精萃』と言う辞書を買って来て調べると、小篆文字である事が分かった。一字一字一日何字も見付からない日々が続き、初め、杜甫や李白の名前が出てきて唐代の国宝的な硯ではないかと大騒動となり、夫婦で文字を探して全文を解読した。東野とか韓氏を手がかりに、今度は諸橋轍次の『大漢和辞典』で探したところ、韓愈の詩である事が分かった。いずれにしても唐代の硯でないことが分かるまでに半年を要した。その後、この硯の由来を知るべく、硯に関する書物を漁り始めた。
 1994年12月相浦紫瑞著の『図説端渓硯』が発売されて、ここにこの硯の写真が載っているのを見て驚いた。なんと「模造紫色硯」という二つ名まで付いた有名な模造硯であった。この硯が全国的に大量に出回ったのは1970年で、まだ水岩が再開される前で、国内には、現在求められる、硯に関する全ての書物が発売される以前で、恐らく一般大衆は端渓硯に関する知識は全く無かった時代の話である。この硯を骨董商から見せられた旦那衆は、これこそ唐代の国宝級の硯と考えて、高い金を払って買った人が多かったと考えられる。うまいことを考える人がいたものである。骨董品として世に出れば騙されても文句は言えない。騙した方も罪にならない。今でも硯の世界はこれと同じ状況である。買う場合、あくまでも自己責任なので、騙されても文句は言えない世界なのである。

写真 42~53 大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯の実体顕微鏡写真

最近の顕微鏡にはビデオ機器と接続可能な装置が付いている。これに記録装置を接続すれば、実体顕微鏡で拡大した画像をデジタルで読み込むことが可能になる。しかしこの光源には偏光フィルターをつけられないし、又ビデオ側にも偏光フィルターが付いていない。硯の像は上に水を載せないと色を出すことが出来ない。この為どうしてもピントが甘くなりきれいな画像にならない。
しかしこのような不完全な画像でも様々な情報を与えてくれた。この顕微鏡像から私の水岩熱水鉱床説が誕生したといっても過言ではない。

写真 42 上部中央の翡翠

 像の上下が全く異なっているのでご容赦願いたい。偏光撮影ではきれいな境界が見られたが、ご覧のように全く境界が不鮮明である。理由は顕微鏡の焦点深度が非常に浅く表面の色だけを写し取っているからである。写真撮影の場合、絞りは5.6で統一して撮影していたので、ある程度の焦点深度が得られた。この結果石の深部の色まで映していたのである。大西洞硯は結晶の透明度が高いことが考えられる。この為全ての石紋は浮動するが如き感覚を与えるのであろう。
 次に大切なことはこの翡翠紋内にある黄色い黄臕とも考えられる紋である。この周囲に翠緑色の紋が発達していることである。この黄臕より三価の鉄イオンが熱水で移動し白雲母内の金属イオンを置き換え、この色が発色していると考えられる事である、良く見ると、黄臕の直近は白色を呈し、次いで緑色となり、周囲に行くに従って緑色が薄く成って行き、置き換えられた二価の鉄イオンは周囲に移動し臙脂暈を形成したと考えられる。硯石を形成する鉱物は雲母である。硯石の成分分析で赤鉄鉱が数%含まれると言う、中国の地質調査結果の報告である。しかし、赤鉄鉱の結晶が石の中を移動するとは考えられない。移動するとすれば水溶液でなければならない。即ち、イオンの状態で無い限り移動できないのである。では赤鉄鉱は、移動先で結晶化したのであろうか。否である。赤鉄鉱の結晶は恐らく雲母より大きいため硯にとっては異物であり硯の質を落としてしまう。雲母内に入り込んでいくと考えた方が理解しやすい。雲母内にどれ位の各種鉱物のイオンがあるかが結晶の色を決め、さらにこの雲母の集合が石紋を形成すると考えられる。三価の鉄が緑、二価の鉄(酸化鉄)が黒、マグネシウムイオンが赤系、カルシウムイオンが白系の発色をすると考えられるが、1ヶの雲母の結晶の中に各種イオンがどれ位の比率で含まれているかも重用である。白色の紋(魚脳凍)の外側に臙脂暈、その外側に火捺と言う配列がよく観察される。これはイオンの移動にある法則があるのではないかとも考えられるが、私の妄想であろうか。

写真43 翡翠紋の外側の臙脂暈

 この部分では、黄臕の外側に翡翠紋、これが薄くなって徐々に臙脂暈に移行し、この臙脂暈も徐々に濃くなって、火捺系の紋に変化していく像が見られる。このような像は金属イオンの移動が原因と考えるのが最も理解しやすい。

写真44  小さな翡翠点

 この硯には至るところで小さな翡翠点が見られる。この写真では中央部分の緑色の点状の翡翠紋が見られ、周囲に黒い色がわずかに見られ、更に其の周囲は白系の色になる。

写真45 玫塊紫青花

 これが偏光撮影でははっきり輪郭があった玫塊紫青花である。表面にはこれだけの斑しか見られない。周囲の臙脂暈もそれ程強くない。

写真46 微塵青花

 硯上部の微塵青花の拡大写真である

写真47 魚脳砕凍内の青花結

 呉蘭修の『端渓硯史』の青花の項に次の如く述べられている。(偏光写真で前述)
 曰く「鵞氄結(がじょうけつ):大は指の如く、小は豆の如く鵞氄堆聚して、外に黒線或いは臙脂線のこれを環する者あり。硯弁(何傅瑶の宝硯堂硯弁を言う)はこれを青花結と言う。これ乾隆以前に開く所の大西洞に多くこれあり。近頃は(同治帝時代)は即ち少なし」
  魚脳凍に関しては「蘭修按ずるに、凍は水肪の凝る所なり。白きこと晴雲の如く、これを吹けば散ぜんと欲す。鬆(しょう)なること団絮(だんじょ)の如く、これに触れなば起きんと欲する者、これ無上の品なり。唯大西洞のみこれあり、又按ずるに大西洞は魚脳に青花を帯たる者を以って極品となす」
  この硯は呉蘭修の言葉を借りるなら、乾隆期以前に開くところの大西洞硯で極品と呼んでも良い硯ということが出来る。

写真48 魚脳凍内の青花結の中心部の白点

 青花結の中心部に白点がある事について呉蘭修は記述がない。この白点は偏光撮影技法で撮った写真では見ることが出来ない。写真9を拡大してみて下さい。やはりこの白点は実体顕微鏡でのみ見られる像である。

写真 49 魚脳砕凍内の2個の青花結

 これも青花結である。角度が違っていることはご容赦願いたい。青花結の不完全な形であるが、これも青花結と呼んでいい石紋であろう。中心部にはやはり白点というより白斑が見られる。

写真 50 典型的な青花結

 これは写真 47の写真より少し拡大を狭めて撮影したもので、青花結の周辺の状態も写したものである。同心円状に広がる紋で、眼の形態と良く似ている。眼の結晶は緑色をしているが、青花結の結晶は黒色である。眼にも瞳があるように、この青花結にも白い瞳があると考えれば、この石紋は眼の形成と同じであるかも知れない。この青花結も暈が4層は見られ外周に臙脂色の結晶が分布している。
  大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯を初めて見た時、魚脳凍がかすかに見られ、この中に青花様の紋が見られて、まず、びっくりした。更にこの硯面に水を落とした時、この紋が鮮明に浮き上がって来た。まさに呉蘭修が言うところの、乾隆期以前に出た大西洞の最高級の硯石である。こんな硯が世の中に転がっていようとは考えもしなかった。大事に守って来たであろう、この硯を譲っていただいた廣瀬保雄氏に感謝したい。

写真51 黄龍紋と青花

 この黄龍の周囲には白紋や黒い紋の発達がない。しかしきれいな黄色である。通常黄龍は裂隙を埋める粘土鉱物の結晶である。拡大すると、裂隙が口を開け、明かに石疵
 である。しかしこの黄龍には全く裂隙の痕がない。きれいな結晶で埋められている。

写真52 臙脂暈内の青花

 暈時暈は実体顕微鏡で見るより、偏光撮影技法で撮った色の方が美しい。写真 6-1で硯右端に出ている臙脂暈はまさに絶品と呼べる美しさである。実体顕微鏡ではこの色を出すことが出来ない。

写真53 線状の青花

 硯の上部で斜めに走る線状の青花である。麻子坑の長い線状の青花と異なり、いくつかの青花が並んでいるため線状に見えることがこの写真で明かである。 実はこの下に上部の焦葉白と中央部の天青と分ける線が走っているのだが。この線は偏光撮影技法で撮った写真でも拡大して行くと見られなくなる。ましてや実体顕微鏡の拡大レベルでは全く見られない。

写真54 新大西洞の青花

 この研は黎鏗の銘の入った新大西洞の原石である。ここにはこのような青花がいくつか見ることが出来るが、定型的な名前の付けられるような青花ではない。

写真55 新大西洞 冰紋凍

 新水岩にはやたらと線が入り、これを冰紋と称しているようだが呉蘭修の書を見る限り現在の冰紋とされる紋の多くは金線である、それも裂隙を埋める黄色い結晶であり、石の石疵である。中には口をあけたままの裂隙がありきれいな石紋ではない。呉蘭修は冰紋を「蘭修按ずるに白暈縦横して痕ありて迹なし。かかること蛛網の如く、軽きこと藕糸(ぐうし)の如し、これを冰紋と言う。即ち大西洞も亦多くあらざるなり。他洞の白紋は線の如くにてたまたま毫頴(ごうえい=筆の穂先)を損す。たっとぶ所にあらず」この文からすれば現代水岩の冰紋と称する石紋は全て冰紋ではないことになるが、この紋は冰紋に近い気がする。

写真56 新大西洞 金線

 これにはまだ水を落としていない状態での撮影である。この硯の氷紋を観察したところ、この冰紋と思われた色が緑色をしていた。金線でもなく冰紋でもない。裂隙を埋めていたのは翡翠と同質の三価の鉄イオンを多く含む雲母の結晶らしい。

写真57 新大西洞 57に水を置いた写真

 水を載せると色がはっきり出る。線の色は緑である。この写真を更に拡大すると線の上の紋と、線内の紋が連続している像が見られる(?)
  水岩系の石は実体顕微鏡で見ても、偏光撮影での写真を見ても、石が濃いまたは淡いこともあるが、紫色が出ていることが特徴なのかも知れない。

写真 59 新大西洞火奈

 黒線と臙脂色を呈する紋が交互に並んでいる。一部馬尾紋の如くの形状を呈する事がある。黒い結晶が集まる時、青花状を呈するか、このような線状を呈するか、又は広く集まって火捺状を呈するか様々である。しかし良く見ると、黒い結晶が集まることなく霧状に広く分布することもある。この黒い結晶の分布する密度で、この部分が様々な色を呈するように感ずる。魚脳凍の中にもわずかに黒い結晶が見られる、臙脂暈は黒い結晶が少ないほど鮮やかな赤紫色が出る。多くなるに従って火捺に近くなる。中には火に焼け焦げたような色を呈する事がある。細い線状に分布するのが馬尾紋である。

写真60 新大西洞焦葉白

 多くの硯では焦葉白或いは魚脳凍の周囲に臙脂暈又は火捺が発達している場合が多い。其の時このように境界が鮮明な物と、そうでない事もある。この硯では境界部分にわずかに臙脂暈が見られる。純白で境界が鮮明ならば魚脳凍として良いだろうが、この面の境界は不鮮明で、やはり焦葉白である。

写真61 新大西洞雲母鉱物

 この写真は硯の外縁部の原石が露出している部を撮ったものである。雲母鉱物特有の反射が見られる。これと同じ様な像が見られる石は三波石である。群馬県鬼石町から出る緑色を呈した石は、学術名を緑廉石白雲母緑泥石角閃石片岩と呼ばれ。多くの白雲母を含有する結晶片岩である。しかしこの結晶は非常に大きく、試みに三波石を平らに削り板状にして墨を下ろして見たが、全く墨が下りず、つるつる滑って硯石にはならない。

写真62 新大西洞五彩釘

 この紋は水をかけないままで撮った写真である。

写真63 新大西洞五彩釘を水で濡らして撮影

 水を載せると鮮明な色が出てくる。この紋には雲母の結晶は見られず、石はガラス化している。この石の形成過程では温度が非常に高かったことが想像される。岩石は通常600度を越えると溶け始めるとされ、岩石が溶けて流動性が出ればそれはマグマである。マグマが固まればそれ火成岩となる。果たして熱水内でこれだけ温度が上昇出来るものなのだろうか。専門家が聞くと噴出してしまうかも知れない。

以下の写真は龍鳳という店で購入した硯石のサンプルである。このサンプルが本当にその坑で採れた石かどうか疑わしい。この写真を見る前にもう一度偏光撮影技法で撮った硯石のサンプルの一覧写真を見てください。(写真 34.35)この硯の石紋の解説は特別なもの以外述べない。主に石質と色について偏光写真と合わせて検討したい。諸鉱石の初めの写真のみに解説を加える。

写真64、65、66 坑仔岩

 坑仔岩にも金線がある。色は紫色がわずかにかかるが、少し褐色調を帯びている。狭雑物が混入している。

写真67、68、69、70、71 麻子坑

 67にはきれいな翡翠色の線が見られる。この中に金線らしい紋も見られる。そして、この線の外側に白味を帯びた斑、そしてその外側に臙脂系の色の紋が見られる。この写真を見る限り結晶の粒子は小さく、均一で、挟雑物も少ない。青花様の紋も見られる。基盤となる色は紫系であるが、一部では褐色系が混じっている。

写真72、73、74、75、76 沙浦石

 現在日本に出回っている水岩や坑仔岩、麻子坑の贋物として売られていることが多いとされる硯石である。露天掘りで採掘され、色の良い物が硯石となり、他は建築用材にされると言う。偏光撮影でも老坑、麻子坑、坑仔岩との区別が難しかったが、実体顕微鏡像ではいくつかの相違点を見ることが出来る。まず基盤となる色は、紫系が薄くまた赤系の色も薄いため全体が白味を帯びるか、または黒い結晶が霧状の存在するため全体が黒ずんで見える部がある。典型的な青花はないが、黒い結晶が集合している部がある。この中心部には、砂状で結晶ではない、桃色の紋が多数認められる。大西洞の青花ないの白斑は明かに結晶であるが、この石二見える斑は根本的に異なる物である。

写真77、78、79 浩白岩

 この石は偏光撮影でも見られたように基盤となる色は褐色である。紫色系の混入はほとんどない。挟雑物が混入しているのが分かる。

写真80、81、82、83、84 朝天岩

 この石に関して何傅瑶は『宝硯堂硯弁』で以下の如く述べられている。
 「質、色並びに佳なり。惟焦白はやや活気少なし。天青、青花ともに大西洞に似る。然れども青花はともに太い山椒の如くして顆顆分かつ無く、顆毎に中に白点あり。これを叩けば亦金声を作す。老坑の青花も亦た、たまたま中に白点を蔵する者あり、然れども各種の青花大小相雑ざる。一律にして分かつ無き者の若し。弁ぜざるべからず。」
 次に劉演良の『新端渓硯』には「朝天岩の品質はかなりきめ細かで紫藍色を呈し、石の中に青苔状の斑点があり。これが朝天岩にしか見られない特色である」
  偏光撮影の写真ではまさにこの2者の説がうなずける石である、しかし実体顕微鏡で見る限りでは一部の石色は、やや褐色系に偏っていると思われる。亦写真84の如く、挟雑物の混入も見られる。

写真85、86、87、88、89 宋坑

 このサンプルが偏光撮影でも実体顕微鏡像でも何傅瑶の『宝硯堂硯弁』で述べられている、端渓の佳石には到底見えない「質は細結軟滑にして、正洞に比すべし。色は純紫なること馬肝の如く、宝徹渾活なり。鮮艶の翡翠及び緑色の多し。ただこの巌捜采してすでに尽く。惟収蔵家は間々之れを有す。今石工の売る所はみな砥石のみ。
  『新端渓硯』でも、宋代の石は将軍坑と常磐古坑で、この石はすでに採り尽くされ、現在は伍坑、陳坑、焦園坑等で採取されている。北嶺の非常に広い範囲で採掘されるため石質、色が一定しない。この石はどう見ても猪肝凍の石とは言いがたい。偏光撮影で石色は褐色系で、なかに挟雑物が多い。

写真90、91、92 梅花坑

 『新端渓硯』の記載では、「わずかに緑色を呈し、石質は宋坑に似て墨の下りも早い。水岩、坑仔岩、麻子坑に較べると石質はやや粗い感じだが、それでも尚端渓硯中でも代表的な名石である」確かに欽定西清硯譜にも3面収蔵されている。宋代には名石だったかもしれないが、現在のこの石を見る限り、実体顕微鏡では挟雑物のみの石で、雲母鉱物が全く見えない。挟雑物は粘土が雲母化しないで、そのまま結晶化したものではないかと思っている。

写真93、94、95 緑端

 清代、四庫全書の総簒官として活躍した紀昀(字は暁嵐)は乾隆帝に寵愛された名文家でありながら、生前詩文や論文を一切保存しようとしなかったことでも有名である。硯癖があったことでも有名であるが、かれの集めた硯が『閲微草堂硯譜』に収められたのは民代に入ってからである。紀昀は緑端渓を好み「端渓緑石、硯譜は以って上品となさず。これ宋代自りの論なるのみ。この石の如きは、あに新坑の紫石の及ぶ所ならんや。嘉慶戌午(嘉慶3年、1798年)暁嵐記す。」と言う硯が存在する。この文の中の『新坑』という表現は、西清硯譜の硯の坑名を分類する上で重要である。すなわちこの頃大西洞全盛にも関わらず、官の名称は大西洞を新坑又は老坑と呼んでいたという事か。
  石の色は青緑で、わずかに黄土色がかりとあり、まさに教科書通りの石である。中に青花が一片みられた。

写真96、97、98 かん羅焦

 偏光撮影では石色は白みがかっているが、火捺を有し、筋状の線は走っている。実体顕微鏡でも紫色系の混入が少ない。一部臙脂色を呈する紋の中に不定形の青花が見られる。

写真99、100、101 白せん岩

 この石には見られないが、巷では時々緑色の斑の入った硯を見る。これは二格青と呼ばれる。斧柯山系の石ではない。この石には二格青は見られない。紫色系の混入は少なく硯面全体は明るく見える。

写真102、103、104 老坑

 この石が水岩のどのあたりで採れた石なのか分からない。しかし写真35 端渓硯石見本2の写真で見る如く、新端渓のいわゆる大西洞と呼ばれているところの硯石とも似ていない。まず老坑と言う名称が、どこからどこまでの採取年代の坑であるか定義がはっきりしない。明代水岩が開採される頃、下巌の延長と言うことで、老坑と呼ばれたことは確かでるが、以後どのような状況で老坑と言う名称が用いられたのかはっきりしない。西清硯譜では、何度も述べているが、大西洞と言う名称は使われていない。紀昀は新坑と呼んでいたようなので、官が用いる名称は水岩、または老坑であったと考えている。 このサンプルの老坑石がどこで採取されたかはっきりしない。だが新端渓(1972年以降開かれた水岩)である事は確かだと思う。しかし大西洞の延長線上の石とは考えられない。いわゆる大西洞の手前で別坑が掘られていると聞くので、その坑の石と考えていいであろう。
 また新水岩にはいわゆる冰紋と称する石紋が多く出る。黎鏗師の大西洞硯にも見られることから。この紋は清代の大西洞の延長上の硯石の特徴と考えられるが、この紋も無い。水岩系の石は実体顕微鏡上では必ず紫色系の色が強く出ることが特徴である。また基盤となる赤系の部分は臙脂色が混入している場合が多いように感じる。青花がはっきり紋状に出ていれば水岩を疑って良いが、斑状の黒い紋は麻子坑にも坑仔岩にも、その他斧柯山系の石には必ず見られる石紋のようだ。即ちはっきりした紋状の石紋以外は青花と呼ばない方がいいのかも知れない。