7.新説端渓硯

 この本が出版されたのを知ったのは『墨』という雑誌である。発刊は清雅堂、劉演良著、廣瀬保雄訳とある。去年会ったあの清雅堂店主が翻訳者である。近所の書店にはこの本は置いてなかった。注文して届くまでには数日かかる。行くべし。翌日は水曜日、この清雅堂は開いているはず。購入して帰りの電車の中で30ページ位は読み終えた。まず感じた事は、この著者はやはり中国人である、歴史を大事にする。図説端渓硯の著者はやはり日本人である。この新説という意味は、今までの総ての端渓に関する著書で全く触れられていなかった、地質学的、鉱物学的記述が加えられたことであろう。私が考えていた端渓硯石の形成過程を知る上での重要な情報が加えられたことであろう。廣瀬保雄氏がこれほど高名な学者とは考えていなかった。これだけの文を翻訳するのは並大抵の知識で出来る仕事ではない。端渓硯史を翻訳した石川舜台翁の文は漢文をレ点返り字をつけてそのまま翻訳したような文で、いわゆる論語読みに等しく、非常に難解であった。この書は漢文を全く現代の口語調に訳している。語学力の高さにまず感心される。この人を相手に昨年あの高言を吐いたのかと思うと、身の竦む思いがする。
 清代の硯の解説書と異なる点はいくつもあるが、この本の著者が端渓諸坑を巡り、地質部門の協力を得るというより、むしろ積極的に水坑の再開を働きかけた結果であり。清代でも工夫を大量に動員しなければ開採出来ない事業を、なしえたという業績である。もちろん一人で出来る事業ではない。例えば端渓名硯廠の黎鏗氏を初め、広東省の鉱産局にも、多くの協力者があったのであろう。しかもあの文化大革命という嵐が吹きすさぶ最中の事であった。
 清末民初の混乱によって、端渓の名坑はおおむね荒廃し、採石をやめた。硯石は欠乏し、その上相つぐ外患内乱と連年の戦火のため、多くの硯職人は落ちぶれて他郷にさすらい、或いは農業に転じた。かくて端渓硯の製作は急速に衰えた。1940年代、肇慶府周辺にわずか2軒しか硯工場が無かったとの事である。50年代後半に端渓硯の職人を復帰させて隊に組織し、端渓硯の生産を恢復する計画が着手されたようである。著者等は先人の書を参考にして、その頃なお健在であった採石工の老人と導きを頼りに、地質部門の協力を得て、1962年から端渓水一帯の峰々をあまねく歩きまわり、そこにある硯坑(洞)をくまなく調査した。それにしてもよく硯坑を知る人が残っていたものだ。清代最後の開坑は1889年張坑である。この年に生まれた人でも70才に達している。この頃開坑に加わった人なら、85才以上になっているはずである。恐らく、この案内した古老は、その子か孫であったろう。そして黄岡の村民には古くからの云い伝えがあったのであろう。これが既に、大西洞神話として語り継がれたのかもしれない。そしてこの1962年の末に、まず麻子坑が開坑された。第二章の端渓諸坑の概況で、この調査に基ずいた、端渓硯坑分布概念図を載せていてる。西江の流れが羚羊峡で北東に向かって流れている。南岸に斧柯山があり、対岸の北岸に龍門山が有る。更に肇慶市北の七星岩の北方に北嶺山系がそびえ、この一帯からも硯石が産出される。この図を見ただけで、この地域が同じ褶曲帯である事が分かる。清代までの諸説はほとんどが水岩坑を実際に見ているとしても、ほとんどがそこまでで、西江岸より600mも高い坑仔岩や、端渓水を4Kmも遡って麻子坑まで達しているとは考えられない。 すなわちほとんどが古老や工夫より聞いた話を基に説を作っている。この本の最大の価値は、著者等が現実に現場まで足を運び、実際に坑道内に入り、調査を行った点であり、今までのどの説より信憑性が高い。更に硯石層の地質学的調査や鉱物学的特性についても調査を行っている。硯を理解する上で最も信頼の置ける情報を提供している。
この基本調査の真の目的はこの頃既に神話となって語られていた、水岩の再開にあったと思われる。又宋代の下巌と明以降に開採されたとする下巌や明代以降開かれた水岩老坑との関係を調べることが大きな問題であったようだ。
 1966年中国では毛沢東の復権活動の文化大革命が勃発した。この年劉演良氏も大学卒業後、この難に遭い、強制的に下放され、硯坑での労働に従事し、再教育を受けたとのことである。麻子坑が再開されたのもこの年である。恐らくこの業務に就かされたのであろう。良く生き残れたものだ。国民約1000万人がその被害に遭って亡くなった、とされる。紅衛兵の跋扈により歴史的に重要な文物が多数破壊され、この時代の国家的な被害は甚大であった。
しかしこれが幸いし、この地域の硯坑の調査が行われる様になり、地質部門の協力も得られたのであろう。麻子坑が開採されて10年後の1972年、ようやく水岩坑が再開された。水岩坑の再開は大変な作業だったようだ。
まず坑道の入り口は1889年以前に使われた坑口しかなく、西江岸に隣接する東洞と飛鼠岩(洞)は完全に泥で埋まっており、さらに岩層に割れ目が入っていてここから掘り進むことは不可能であった。入るとすれば旧洞口しかなかった。旧洞内には水がたまっていて、到る所、へどろや石屑ばかりで、水を取り除いて(恐らくポンプを使ったのであろう)洞内に入ることが出来た。するといくつかの地区で岩石が崩壊しているのが発見された。これ等の石道をかたずけ、崩壊箇所に支柱を取り付けたり、鉄筋コンクリートで補強して進んだ。石道からは素焼きの油ランプ、だがね、のみなどの採石工具の他排水に使用した陶罐(かめ)が完全な形で発見された。
 1976年9月毛沢東が亡くなり、10月には4人組みが逮捕され、文化大革命は終焉した。この頃新体制の下で、この地区の地質調査が、広東省鉱産局719地質大隊によって進められていたらしい。77年には坑仔岩に新たな坑道が掘られ採掘が再開され、更に80年には水岩坑の坑口の南13mの所から、新たに一条の坑道を掘り、大西洞に直結した。旧坑道のように狭くなく、高さ、幅共に1.8m、トロッコを設置したため、作業の環境が改善し、以後年間約15tの硯石が掘り出されるようになったとのことである。
 この地質調査報告がその後『端渓硯地質調査報告』にまとめられ1985年に発表された。としているが、しかし、この報告はまだ未公開とのことである。極く一部が発表されただけのようだ。この点に関しては下記の報告に詳しく述べられているので、この文献を参照するといい。
『端渓硯石産地の地質と「懐瑞続硯譜」』地学雑誌 Journal of Geography 110(5) 734-743  2001 鈴木舜一 東北大学名誉教授
この年になって、日本でも地質学者がようやく登場した。この報告は本邦における地質学的用語を使い中国の地質調査報告を解説している。さらにこの報告では、崇禎13年(1640年)刊の肇慶府志巻10にある『懐瑞続硯譜』の内容について紹介している。今まで呉蘭修も何傅瑶も劉演良も参照したことのない硯譜で、宋代の硯坑に関する認識を一変させかねない内容を含んでいる。その件に関しては、後に硯石の地質学的問題として取り上げてみたい。
第二章は端渓諸坑の概況と題して、現代開坑している肇慶市周辺の硯坑に付いて記述している。呉蘭修も同じような解説をしているので比較しながら読むと面白い。しかし水岩については、この項での記述はわずかであるが、以後どこにでも水岩が登場してくる。

1)硯坑の現状

1.水岩
この書が大西洞の解説書でないことが良く分かる。傍坑の記述は無く、三層五層説についての記述もない。大西洞、水帰洞についても、良く見れば石色に微妙な差がある、冰紋は大西洞のほうが少し多い、と書いてあるだけで、水岩石全体の特徴が主に述べられているにすぎない。石紋についての記述も至極あっさり述べられているだけである。呉蘭修や何傅瑶が、水岩を各洞に分け、諸家の説を紹介しながら、綿々とその石質を論じているのと大いに異なる点である。この項では老坑の現状について簡単に記されているだけだが、この後第三章、老坑の名称、位置と歴史で詳しく説明される
2.坑仔岩
水巌南方半山の上、水岩洞口よりほぼ600mにあるとしている。『端渓硯譜七種』の巻頭に楠文夫氏の撮影した写真と合わせて、相当高い位置にある事が分かる。開坑採石の歴史は古く、北宋治平年間(1064~67年)開坑以来、歴代皆開採している。しかし清の咸豊9年(1859年)採石の際、洞内に大きな土砂崩れが起こり、死傷者が出たようだ。呉蘭修は『高要県志』を引いて「岩壊れて傾かんと欲し、積水乾かず、石工取る事を恐れる」としている。1965年頃から始まった現地の調査で明代以前の陶磁器の破片が見付かっているという。坑仔岩は清末の大規模の開採以後100年間採掘されることは無かったが、1977年、新たに90m余の坑道が開鑿され、元の採掘現場に直結した。翌年から上等な坑仔岩硯石が大量に採取されるようになったとのことである。
坑仔岩の硯石は質が若々しく、潤いがあり、堅くしまっていて、肌理(きめ)が細かい、しかし老坑や麻子坑のように層のけじめ(?)がはっきりはしていない。石色はやや赤味を帯びた青紫で、色合いにあまりむらが無く、老坑や麻子坑のように色とりどりに派手ではない。石品(紋)には焦葉白、魚脳凍、青花、火捺及び各種の眼があり、ことに眼が多いので知られる。石眼の色は青緑色(エメラルド)、時に黄色もある。暈も7~8重で黒い瞳がパッチリと、鳥獣の眼に似ていて、端渓名坑中でも高級品とされている。
3.麻子坑 
水岩坑より端渓川を遡ること4Km、さらに川の左上方600mにあるという。坂が急な天の梯(はしご)という岩山をよじ登らねばならないという。清の乾隆年間(1736~95年)陳というあばた面(麻子)の人が発見したことを記念しようと、麻子坑と名付けられたという。端渓硯再開は麻子坑が最も早く1962年であった。水坑と旱坑の2坑口がある。両洞は上下約5mの間隔である。水坑は下にあって、洞内は湧き水が岩壁から滴り落ち常に水につかっている。旱坑は上にあり、やはり洞内には水が滴り落ちているが、水坑より水の量がわずかに少ないだけという。坑道は高さ80cm、幅90cm、両坑ともに長さ90mに達しているという。石質は優れて清らかで、みずみずしく、肌理が細かく、つんで滑らかである。且つ堅くて丈夫である。それは老坑には及ばぬものの、坑仔岩とは同等である。もし佳石にめぐり合えば、それは老坑にも比肩する美しさで、本気になって細かく観察しないと老坑石と混同してしまう位である。魚脳凍、焦葉白、青花、火捺、猪肝凍、金銭火捺、石眼等の石紋がある。麻子坑の眼も佳いもので、碧緑色が多く、瞳もある。まま鴝鵒眼、鸚哥眼等の佳眼も見られる。暈も数層ある。
 『端渓硯史』では『広東通志』、『高要県志』、『宝硯堂硯辧』を引用するのみで、呉蘭修の意見はない。何傅瑶は「麻子坑は色青にして質細なり。甚だ大西洞に似たり。然るに眼、大なること拇指頭の如く焦白、魚凍皆実にして滑、粉塗の如き者なり。天青は微紅なり。青花は極めて長点多し。浮動せず、且つ織席紋多し。縷縷として相続き直にして曲なり。その黄龍ある者は小西、東洞に混ずべし、然るに両洞には断じて織席紋なし」と述べている。呉蘭修も恐らく同意見だったのであろう。
4.宋坑
この坑名はこの坑が宋代に発見され開鑿、採石されたことから名付けられた。この坑はある一つの坑を指すのではなく、いくつかの採掘洞の総称で、盤古坑、陳坑、伍坑、蕉園坑等の総称である。これ等の坑は肇慶市郊外北の七星岩の背後にそびえる北嶺山の一帯、西は小西峡から東は鼎湖山に至る広い地域を含んでいる。嘗て七星岩の北方、将軍嶺の下に将軍坑があったことから、宋坑を将軍坑と呼ぶ時期もあった。現在将軍坑の石は尽き、盤古坑の石も間もなく尽きるとのことで、伍坑より採取しているとのことである。この地域は面積が約50万平方キロメートルに及ぶため石質、石色は一定しない。ただ一般的に宋坑の石は猪肝色、又は馬肝色のように、重々しく、深みのある紫色をしている。特に馬肝色は蘇軾の詩に「端石馬肝に琢む」という句があり、乾隆帝も西清硯譜巻二十三付録の駝基石五螭(ち、伝説上の動物、角のない雌の竜等諸説あり)硯に「墨を受くるに何ぞ馬肝を誇ることを須(もち)いんや」という句があり、馬肝というと宋坑の硯石を指すようだ。その表面には金星点があり、陽の光に照らされてキラキラ光る。良質な宋坑石には火捺もあり、更に良いものには猪肝凍或いは金銭火捺がある。焦園坑の石は黄青がかかった紫色で色つやはあまりさえないが、眼が多い。有眼宋坑とも呼ばれる。端渓諸坑の中でも宋坑硯は墨のおりが早いので有名である。これは硯中の金星点と関係がある。しかし下りは早いが老坑、麻子坑、坑仔岩と比べて墨汁のきめ細かさ、滑らかさ、つややかさでは一段劣っていることは確かである。従って奔放、流暢で筆力も強い太字を書くには宋坑硯で墨をするのが良く、一方謹厳、精緻で細密な花鳥、人物を画いたり、きちんと整った蠅頭の小楷を写すときには老坑、坑仔岩、麻子坑の硯で磨るとよいとされている。硯石の埋蔵量は豊富だが坑内には水が溜まりやすく、常に水を取り除いてからでないと採取出来ない。書内に宋坑の採掘現場を撮った写真が一枚添えられている。この写真を見る限り宋坑は坑道状に産出するのではないことが明かである。中には焦園坑のように鼎湖風致地区内にあるため開採には厳格な規制が設けられている坑もある。
5.梅花坑
開坑は宋代にはじまる。この石は羚羊峡から東の高要県沙浦の典水村から出たので、昔は典水梅花坑と呼ばれた。硯石はわずかに緑色を帯びた明るい灰蒼色を呈する。眼の多いことが主な特徴である。眼のなかに点がある。その点は大きいが暈は重く不鮮明である。現在典水地区では滅多に産出されない。現在の梅花坑は北嶺山の九竜坑で採掘されているようだとのこと。宋代の梅花坑硯2面が西清硯譜に載せられている。
6.緑端
この石は北宋時代から採取され始めた。石の色は青緑でわずかに黄土色がかり、翠緑色を最も上とする。石質は肌理が細かく、若々しく、潤いがあって清らかである。最上のものは翠緑一色で純粋で、疵が無く、明るく澄んでつややかに潤い独特の風格を備えている。この著者の最大の賛辞である。清代の紀昀(字は暁嵐、1724~1805年)所蔵の緑端渓硯に「端渓緑石、硯譜では以って上品となさず。此れ宋代よりの論なるのみ。この硯の如きは、あに新坑の紫石の及ぶ所ならんや」と刻し、もう一面に「端渓の支、同宗の異族。命けて緑瓊と曰い、用(もっ)て紫玉にならぶ」としている。この石は『高要県志』によると北嶺に出で、小湘峡、鼎湖山に及び皆旱坑なり。としている。古くは北嶺で採取され、硯石が尽きてから、端渓水一帯の朝天巌の付近で採取されたようだ。緑石に甘粛省の洮硯あり、とは述べているものの洮河緑石との比較検討は全く行っていない。
7.古塔岩
坑仔岩の南屏風背の前面に位置する。佳い石は麻子坑、坑仔岩には劣るものの宋坑とは比べ遜色ないものがある。石の色は重厚で全体的には、やや赤味を帯びた紫色だがたまには紅紫又はバラ色を帯びる部分があるものもある。たまには大変佳い眼が見られるという。火捺、焦葉白はごく少ない。
8.宣徳岩
明の宣徳年間(1426~35年)に開催したのでこの名がある。石色は猪肝色を基調として少し紫藍、蒼灰色を帯びる。石質も肌理が細かく、坑仔岩や麻子坑に次ぐ、石脈が途切れることがあり、採石が難しく、現在産出されることは無いようだ。
9.朝天巌
宣徳岩の近くにあり、清、康熙年間(1662~1722年)に採掘が始まった。洞の入り口が大きく天を向いているために朝天巌と名付けられた。総じて宣徳巌や朝天巌の石質石紋の記載は『端渓硯史』ほど詳しくはない。思うに現在この坑は採取されていないため、コれらの記載が乏しいと考えられる。
10.白線巌
羚羊峡、斧柯山の対岸にあり巌洞ないは三層に別れるという。第一層の石の表面は翠緑がかった青色で質のいいものは硯に成る。二層は二格青と呼ばれ多くは低級の硯にしかならない。第三層は青石で上質なものは火捺もあり硯材になる。
11.その他、ハン羅蕉、沙浦石、猪施石、桃渓石、結白岩、大坑頭、有洞岩、錦雲岩
これ等硯石は、有名坑の名を付けて売られていることが有るという。
この項では最近市場に多数出回っている沙浦石に関する記述は無い。

劉演良が歴史的な記述を大切にしている事は、呉蘭修と同じである、四大名硯として端渓硯、歙州硯、洮河緑石硯、紅糸硯を挙げている。後に澄泥硯がとって代わったとしている。洮河緑石硯や澄泥硯を否定することも無く歴史上の硯としている。この論法は呉氏も他の人の説を紹介した後に、蘭修按ずるにと、自説を述べる形式と全く同じである。この手法は中国の硯書に共通しているように感じる。ここで従来の硯説と異なる点を挙げてみたい

2)下巌と水岩老坑の関係

下巌と水岩の問題について、劉演良は端渓硯地質調査報告書の文、即ち
「羚羊峡東端、南岸の端渓水以東一帯の硯石含鉱区は三個の含鉱区に分けられる。第一含鉱層は含鉱段(層)の最下部で、全含鉱区のうち石質が最も良い。この地層こそ、まさに古人指すところの「下岩」の所在地に他ならない。つまり「下岩」の地層である。ここには従来一個の坑洞、すなわち水岩洞(老坑、または皇岩)があるだけで、これ以外に硯石を採取した坑は無い。次は第二含鉱層で、主に古塔岩、宣徳岩が分布している。古人言うところの中岩とは即ちこの地層である。第三含鉱層は主として坑仔岩、麻子坑が分布し、これが古人言うところの上岩の地層である」
呉蘭修は下巌は宋以前に開採した坑で、水岩は明の万暦以後開かれた坑だとしているが、劉演良はこの説に対して次の様に述べている。
「呉氏の『端渓硯史』は、主に『高要県志』および、宋、無名氏の『端渓硯譜』を根拠とするが、彼らが引用する根拠や、それによって引き出される結論は、おおむね〈古人云く〉、という所から来ている。〈古人云く〉に対して我々は絶対に肯定することはできないし、勝手に否定するわけにもいかない」これが中国人の歴史感なのであろう
この下巌、水岩同一説は一見すると呉蘭修の説を否定しているように見えるが、実際は呉氏の説と同列に述べているにすぎない。呉蘭修の文を良く見ると、下巌と水岩が別坑であるとは述べていない。即ち万暦以前のこの坑の呼び名は下岩であって、万暦以後は水岩と呼ぶということだけである。以下の呉蘭修の文を読めばそのことが良く分かる。。
「又按ずるに、高要県志に云う。唐宋の端石は今の水岩にあらず。宣徳(1426~1435年)以前取る所もまた今の水巌にあらず。ただ万暦28年(1600年)の石刻は水巌にあり。蓋し万暦間(1573~1620年)初めて開くなり。又明季陳喬生の硯書に云う。水巌、近日に開く、数十年来始めてこれを重んずることを知る。旧硯実に如かざるなり、と。すなわち水巌の万暦間に開くこと審らかなり。」この文は万暦以前の下岩より採取される石は水岩に比べると格段に劣っていたと言っているのである。そして万暦の採掘で下岩は終に大西洞の入り口付近に達し、この頃から質の良い石が産出され始めたのであろう。そしてこの坑を水岩と名付けただけのことである。
米芇の硯史に云う「仁廟以前(仁廟と名付ける廟は唐太宗)即ち626~648年以前、史院に賜う官硯は多く是下巌石なり。その後来の歳貢は唯上巌石のみ。 下巌は洞を穿ちて深く入る。四時を論ぜず、皆水に浸れり、治平中(1064~1067年)の貢硯は水を取ること月余にしてまさに石に及ぶ。」とし更に「下巌既に深く工人費やす所多く、硯直補わず、故につとずるも能く取るなし。近年復た開くあるなし」と述べている。
「蘭修按ずるに太宗、貢硯罷む。‥‥‥米史も亦治平中貢硯の事を載せる」
「蘭修按ずるに硯坑志に、治平坑を土人又称して坑仔巌という。これによれば坑仔巌即ち宋の下巌なり。宋の下巌、崇観(1102~1110年)以前より塞がる。且つ其の地、相越ゆること里許りなり。譜を作る者、皆混じて一となす。むべなり。その言のこうかつなること。」
又端渓硯史を翻訳した石川舜台も
「世に宋端と称する者少なからず。而して佳者未だ曽てこれを見ず。青花、焦白、魚凍、魚脳若しくは猪肝色の精妙なる者は、すべて明以後の物なり。蓋し水巌開きて佳品初めて人間に出づ。其の唐宋の旧物にして宝襲すべき者は、天上或いはこれあらん。人間終に見るべからず」と述べている。
 このように下巌の事は米芇の硯史を引用して否定しているわけではない。しかも下巌の開坑が唐太宗以前と考えられることも述べている。この坑も掘り進められて宋代に入ると既に深くなり、採掘が出来なくなっていて、崇観以前に塞がっていて、其の頃見付かった治平坑(坑仔巌)が宋代の下巌とされていたらしい。以後300年以上下巌は開坑されなかった。宣徳6年に開かれた坑は今の水岩ではなく宣徳岩であった。万暦28年(1600年)に開かれた坑が今の水岩である。と言っているのである。どこにも下巌と水岩が違った坑道であるとは言っていない。
唐代の下巌硯は朝廷の官吏に下賜され、民間には伝わっていない。又宋代になると坑道が深くなり採取が難しくなるとともに石質もむしろ其の頃発見された坑仔岩の石質のほうが勝っていた可能性が高い。相浦紫瑞氏も劉演良氏も北壁、南壁についてその説を記述していないが、
鈴木舜一氏は『端渓硯石産地の地質と古文献「懐瑞続硯譜」』の中で
「下岩の水面から上に出ているところの南北壁を皆中岩と呼んでいる。旧志(嘉靖刊肇慶府志)は北壁の石を上質としている。北壁は曲がりくねった険しい路が数里の所にあるが南壁は甚だ近い所にある。北壁には石質の良いところが数箇所あり、土地の人が場所を選んで穴を掘り、採石している。時たま醇質、石声、気韻、眼共に下岩と差異のない者がある。南壁の石は堅潤で北壁に類するが、割れ目や沙線が多い。清潤、気韻があり、子供の肌のようである。初めは良いが3~4年で鋒鋩が退き墨が滑って発墨しないようになるので、細かい砥石をかける必要がある。万暦の中使が採ったのはこの石である」
この文の北壁は坑仔岩を指すものと考えられ、南壁が下岩を指しているものと考えられる。即ち上岩、中岩、下岩という硯石層の分類の他に北壁硯、南壁硯という分類方式がありこれが交じり合って難解な理論に発展したのかもしれない。劉演良も呉蘭修も古人の説を大事にし、否定はしても無視することはない。これもある書のひとつである。
区懐瑞の『懐瑞続硯譜』は崇禎13年(1640)刊の肇慶府志は50巻、図1巻の内、硯については巻10地理誌の3土産に記述がある。これには嘉靖刊肇慶府志の端渓硯石の記述、および続博物志をはじめ宋代の文献7つが収められており、さらに区懐瑞の懐瑞続硯譜が載せられているとの事である。なお、この崇禎刊の肇慶府志は中国には残っておらず、日本の国立国会図書館にある物が唯一という稀書であるとのことである。

3)水岩内四洞説

呉蘭修は『端渓硯史』で何傅瑶の説をそのまま引用して、それぞれの洞の硯石の特徴を論じている。翻訳した石川舜台もこの説に対して異論を挟んでいない。大正期の日本の識者の間でもこの説が信じられていたようだ。
此れに対し相浦紫瑞氏は『図説端渓硯』で小西洞、東洞、正洞を本坑と傍坑だけに分けて、石質の時代的な相違について述べている
劉演良は再開時小西洞、東洞は泥や廃石で埋まってしまって確認出来ないとだけ述べている。

4)大西洞内三層五層説

呉蘭修の説では大西洞の解説のほとんどがこの三層五層の石質の解説で占められているといって過言ではない。相浦紫瑞氏はこの説は坑道内で硯石層を実際見たことのない者の空想によって生まれた説として、完全否定である。劉演良はこの点に関して全く触れていない。古人の説は否定も肯定もしないという態度であるが、相浦紫瑞氏と同意見なのであろう。

5)硯石、鉱床、地質

区域内の硯石層は、主として斧柯山の短軸の背斜面、ならびに北嶺背斜面のデボン紀中、下系統桂頭群の下亜群の中に埋蔵されている。この亜群を区域内の含鉱岩系と称する。この亜群はその石性によって又上、中、下三段の岩性に分かれる。硯石がとれるのは中段だけで、これを含鉱段と呼ぶ。含鉱岩系は、基本的には全て砕屑岩より出来ていて、粗から細へ、即ち砂岩から泥質岩へと規則的に変化している。このように端渓石は一種の沈積鉱床であって、中、下デボン系統桂群の下亜群の中段より産し、内湾の潮間帯で沈積したものである。そして硯石層は潮間帯の中間の粉砂泥質砕屑の沈積物より成る。
全区域を通じて四個の硯石含鉱層がある。第1含鉱層の石質が最も良い。この層位にあるのは水岩だけである。しかしこれは相対的な話であって個々の名坑の石の石質の良し悪しと層序との関係は絶対的なものではない。例えば麻子坑の良いものは老坑石に比べて全く遜色のない物もある。次が第二含鉱層で主に古塔岩、宣徳岩が属している。古人言うところの中岩に相当する。第三含鉱層には麻子坑、坑仔岩等が分布している。これが古人いうところの上岩である。
端渓石の鉱床は主として泥質頁岩中に産する。鉱石を含有する部位は比較的安定しており、ほぼ層状、扁豆状を呈し、レンズ体が層のすじ目に沿って分布していて、切れたり、つながったりはするが、層を突き抜けることはない。層の厚さは一様ではなく、通常0.2~0.6mである。層の傾きは緩やかで、傾斜角は10~30度。傾斜沿いに深さは数十m~百数十mに及ぶ。側面方向へのふれは大きい。
硯石の層位は主として中.下泥盆統桂頭群の中段に埋蔵している。端渓石は原生時には泥質岩、泥質頁岩、粉砂を含んだ泥質岩、珪素分ないし鉄分を含んだ頁岩等であったが、これらの岩石は印支運動及び燕山運動の影響を受けて、軽度の変質作用を起こし、岩石が変質して板岩や板状頁岩となった。もとの岩の鉱物成分と組織、構造にも程度の異なる変化が生じた。その主要な鉱物成分である水雲母(鉱物の総含有量の85~90%と推定される)は変質作用を受け絹雲母に変わった。もとの岩の組織は泥質であったが、変質作用の過程で再結晶作用を起こすことによって、微小麟片変品組織に変わり、局部的にはもとの泥質組織の残余を保留して、変余泥質組織となった。岩石中の鉱物は緊密な一定方向配列をなし、平行構造や薄層状構造を形成した。
尚端渓硯の石材は肇慶市の北の郊外、羚羊峡の東側の端渓水付近の斧柯山及び七星岩の背後の北嶺山(西は小湘峡より東は鼎湖山まで)に産し、その範囲は約百平方Kmに及ぶ。端渓水一帯にある著名な硯石坑には、水岩(老坑)、麻子坑、坑仔岩、宣徳岩、はん羅蕉、朝天岩、古塔岩、緑端等があり、北嶺には宋坑、梅花坑緑豆端等がある。なお、かつて採掘されたが、その後やめ、近年になってまた大量に採掘され始めた鼎湖区沙浦付近および桃渓一帯の硯石がある。これらの硯石はもちろん水岩や麻子坑、坑仔岩等の名坑の硯石にはかなわないし、同列に論じるわけにはいかないが、中級硯、下級硯を作るのには良い硯材である。その上ここの硯石鉱は埋蔵量がかなり大きく、採掘もさほど困難ではない。この一帯の硯石には典水梅花坑、古塔岩、緑端もあるが、その他の硯石には未だ正式の名称が付いていないので、ひっくるめて沙浦石と呼んでいる。

注1
この文は斧柯山西斜面の硯石層にのみ適応する文であることを念頭にするべきである。 端渓石の産状を見ると斧柯山西斜面、その反対側の沙浦地区、及び北嶺宋坑とがそれぞれ異なった形で採掘されている。まず斧柯山西斜面の端渓水の東側では水岩、麻子坑、坑仔岩全てが坑道状で採掘されている。沙浦石は露天掘りで山を切り崩して、色の良い物は硯材にし、その他は建築用材となる。宋坑は採掘現場の写真を見ると歙州石の採石現場と似ている。
産状が異なるということは硯石の生成過程が異なっていることを意味している。硯石はデボン紀に内湾の浅い海に堆積した砂岩、頁岩から形成されたと単純に考えるわけにはいかない。堆積は約4億年前より約5千万年の間に堆積したものであり、さらにこの付近が陸化するまでに約1億年という想像できない長い年月がある。この間、この地域は南半球から北半球に移動しており、大きな大陸同士が合体、分裂を繰り返している。同じ山塊の東と西で全く違った形態の硯石が存在するということは、二つの異なった地塊がある時点で合体したと考えるよりほかない。恐らく燕山活動期の地殻変動で衝上断層のような形で合体したのであろう。
注2
この報告からは端渓水一帯の硯石が単なる泥質頁岩の堆積及び圧による変成作用によって形成されたものでなく、堆積物の圧縮によって生じた熱水が周囲の鉱物を溶かして粘土鉱物が堆積し、熱水の絹雲母化作用によって硯石が形成されたと考えられる。この点に関しては別に硯石の形成過程の項で考えて見たい。
付録二
端渓石鉱床の地質的特徴と硯石の特徴の項には別に以下の記述がある。端渓石の産出区域は雲開隆起の東北凹陥区内に位置する。即ち東北方向の呉山―四会断褶帯と高要―恵来の東西方向の凹褶帯の複合部位にあって、高要褶皺帯の支配を受けている。
注3
この文に関しては、現在コンピューターにGoogle Earth があれば容易に見ることが出来る。

6)石紋の鉱物学的特徴

はっきり言って、この本の石紋の解説はほとんど呉蘭修の記述と同じである。鉱物学的特性にしても、青花の形成過程に関する記述は全く無いに等しい。魚脳凍、火捺、金線、銀線、冰紋及び石眼の項に極く簡単に次のように述べられている。

魚脳凍
「岩石が生成する過程において鉄質の転移や集合を引き起こす。極く細い扁豆のへりには、鉄質が扁豆体の粘土鉱物に吸いつけられて扁豆体の間に大量の赤鉄鉱の分布ができて、火捺の模様が出来る。泥質扁豆体が変質作用を受けた後、泥質の重結晶は雲母鉱物の集合体となる。鉄質を含まず雲母類を主とする粘土鉱物扁豆体を、魚脳凍と呼ぶ」
青花
生成過程に関する記述全くない
火捺(臙脂暈火捺)
この紋の形成は硯石中に含有する、微粒状あるいは粉末状の赤鉄鉱によるものである。含有量3~5%、粒子の径は0.01mm位)岩石の形成過程で鉄質鉱物は側分泌作用によって相対的に集中し、またバランスよく分布したため、赤鉄鉱頁岩が形成された
金線、銀線
硯石が形成された後に生じたひび割れである。酸化鉄がひびに沿って詰まると色合いは黄褐色の金線となり、炭酸塩が詰まると白色の銀線になる。
冰紋
冰紋もまた硯石の生成後に生じた、ひび割れに炭酸塩が詰まったものである。
石眼
水岩が再開されて10年地質学者や技師が石眼の調査を行い、水岩いがいの坑の石眼も含めて百余顆のサンプルを集めて切片を作り化学実験を行った結果、石眼は鉄質を含んだ一種の結核体である事が証明された。その形状、及び各種結核と周りの岩との関係からして、これらの結核が岩石生成の異なる段階で形成されたのだと言う。即ち岩石生成の早期段階に黄鉄鉱を核心として形成された結核は、もっと早い時期に既に埋蔵していたカルシウム質、あるいは生物の破片が形成した結核である可能性がある。この結核が褐鉄鉱や赤鉄鉱、又は水酸化鉄を吸い寄せて、同心円状の暈が形成されたのであろうとしている。

以上中国の地質調査報告には岩石の成分分析結果は提示されているが、いくつかの疑問点がある。

  • 岩石を構成する鉱物成分、特に結晶と言う概念が全く示めされていない。
  • 化石に関する記述が全く無く、時代判定をどのようにして行ったのかわからない
  • 硯石層周囲の地質に関する記述がない。産出状況が違えば当然地質も異なるはずである。
     少なくとも斧柯山西斜面の地質と東斜面の地質を提示して欲しかった

7)端渓地区における硯石形成過程に関する、私の推論

ここで中国大陸が形成されるまでの地殻変動をいくつかの本を参考にして、特に硯石の形成に必要と思われる地質学、岩石学、鉱物学の用語を下記の書籍から抽出して見ました。

  • 地学事典 平凡社
  • 岩石学Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、都城秋穂,久城育夫共著 共立全書
  • 一般地学 紺野義夫、島津光夫、増田孝一郎共著 共立出版
  • 変成作用 都城秋穂著 岩波書店
  • 世界の地質 都城秋穂編 岩波書店
  • 日本列島の誕生 平 朝彦著 岩波書店
  • 日本の岩石と鉱物 通商産業省工業技術院地質調査所編
  • 大絶滅 Douglas H.Erwin 著 大野照文監訳 沼波信、一田昌宏訳、共立出版
  • 端渓硯石産地の地質と古文献「懐瑞続硯譜」地学雑誌110-5 734-743 2001 鈴木舜一(東北大学名誉教授)
  • 楽しい鉱物学 掘秀道 草思社
  • 楽しい鉱物図鑑1及び2巻 掘秀道 草思社

以下の文は、私個人の、硯石形成過程の推論です。専門家の先生からは、きついお叱りを受けることを覚悟の上でこの文を書かせていただきます。
 私がこの理論を考え始めたのは、各坑の硯石のサンプルを手にいれ、これを偏光撮影技法で撮影したり、実体顕微鏡での観察をして、現代の水岩の冰紋は裂隙であり、この中を埋める黄色い物質、即ち粘土が絹雲母化せずに固まったもではないかと考えたことから始まった。いくつかの、水岩と呼ばれるサンプルを削ったり、磨いたりして冰紋と呼ばれる石紋を観察して、この周囲に白い魚脳凍が発達して、更にこの周囲に押しやられる形で火捺が見られることに気付いたことに始まる。硯石が形成される、ある一時期、石の中を自由に金属イオンが移動できる状態にあったのではないか。金属イオンの移動、これが石紋を形成させたのではないか、と考えたからである。斧柯山系西斜面の硯坑の特徴は坑道状である事から、熱水が関与していた可能性が高い。しかしこの斧柯山の東斜面の石は岩状、露天掘り。宋坑は層状の堆積らしいことも写真で推測された。水岩の石質が優れている理由は、坑道状の産出に拠ると考えられた。

用語解説

堆積岩:
地球の表面で、比較的低温低圧の下で堆積した物質から出来ている。堆積が起こるのは水中,殊に海底である。水中で出来た石を水成岩というが、水成岩、即ち堆積岩である。
粘土:
堆積物を構成する5μ以下の粒子。母岩が風化分解し、Ca、Naなどの水溶性成分が失われ残ったSi、Alが水と結合して一群の粘土鉱物が作られる。粘土鉱物の主成分は水酸化アルミニウムでFe、Mgが加わる。カオリン類、モンモリロナイト類、加水雲母類の3型に分かれる。Al2O3、SiO2の比、面間隔などそれぞれ特徴を示す。地表に於ける風化作用のほか,海底風化、温泉作用、熱水変質作用によっても生成される。
泥質堆積岩:
砕屑性堆積物の中で最も細粒のものは粘土で、粒子の直径は0.005mm以下で(シルトは0.005~0.05mm)、これが固まった堆積岩を粘土岩、またはシルト岩という。
泥岩:
粘土が圧縮脱水によって固化した岩石。無層理のものが多いが、しばしば収縮による節理がみられる。ときにはラミナ、流痕などの堆積構造や、ノジュール、リーゼンガング環のような拡散による二次的構造も見られる。泥岩には石灰質、凝灰質、砂質シルト質のものもあり広義にはシルト岩も含めて泥質岩と呼ぶこともある。また特に石灰質のものを泥灰岩、砂、シルト、火山灰などの不純物の多いものをロームと呼ぶこともある。
頁岩と泥岩:
泥から出来た堆積岩が顕著な層状構造を持つ時は頁岩と呼ばれ、持たない時は泥岩と呼ばれる。
コンパクション:
堆積物が堆積した直後には、一般に固体粒子の間にはたくさんの隙間がある。水中で生成されるとその隙間には水が入ってくる。しかし上に堆積物が重なっていくと、その重みで圧迫され、粒子の間隔は詰まってきて、水はしぼりだされる。これをコンパクションという。
粘板岩:
泥岩や頁岩が圧力による低変成を受けて堅く、緻密になったもの。中、古生界に多い。堆積面に無関係に剥離しやすい。灰色~黒色。少量の炭質物、黄鉄鉱、雲母、方解石、石英、金紅石などを含むことが多い。粘板岩の変成の進んだものが千枚岩である。昔は瓦、石板などに利用されたが、今でも砥石や硯石として利用される。碁石(黒石)の材料として有名な那智黒も黒色粘板岩の一種である。
ここで硯と砥石の根本的な相違は、硯は水を吸わないものが良質である。逆に砥石は水を吸わなければ使用できない。同じ粘板岩でありながら片や堅く緻密な岩石で、片や柔らかい砂岩状の堆積物である。同じ様な変成過程を経たとは到底考えられない。
続成作用:
堆積作用が続くと、地層が次々と上に重なってくるので、古い時期に生じた堆積は地下の深いところに入っていくことになる。底では温度や圧力がかなり高い値に達することもある。堆積物が堆積後に受けるいろいろな変化を総称して続成作用という。続成作用はコンパクションの他に、既存の鉱物が水に溶けたり、水の中に沈殿したりして、既存の鉱物と交代して新しい鉱物が生成されるような過程を含んでいる。
変成作用と続成作用:
変化を受けるときの温度や圧力が余りに高いと、一種の変成作用となる。 堆積物が広域変成作用をうける時、その一点について考えると、温度が上昇して、ある値を超えると、再結晶作用が起こり始め、低変成度の変成岩を生ずる。さらに温度が上昇すると鉱物の間に化学反応が起こり、或いは分解が起きる。それに伴って鉱物からはH2Oが放出される。OH―をもつ白雲母は石英と反応してカリ長石と珪線石になる。 この様に時間と共に温度が上昇して再結晶作用が進み脱水反応が進むような変化を累進変成作用という。変成岩の化学組成と鉱物組成泥質の堆積岩はAl2O3やK2Oの含有量が多い、そのために変成作用を受けると多量の雲母類を生ずることが特徴である。この種の変成岩は温度や圧力の違いにより、鉱物組成が敏感に変化しやすい。したがって、この種の変成岩は変成の温度を知る上で重要である。

ここで硯石の形成過程に関しての推論をまとめてみよう。

1 カレドニア造山活動
 狭義にはシルル紀、デボン紀(4億年前)、広義にはカンブリア紀からデボン紀の間
(5.5億年~4億年の間)世界全ての地域の造山活動。
 ベルム紀(3億~2.5億年)末にはローラシア大陸とゴンドアナ大陸が合体して超大陸パンゲアが出来た。現在の世界地図とは全く異なった大陸形態であった。この時期中国の揚子江地塊がどのあたりにあったかは、まだわかっていないとのことだ。
まず印支運動以前、即ち古生代又は先カンブリア時代かもしれない、現在の中国広東省付近の地層は、大陸プレート(仮名)の縁の海底下にあり、陸地から少し離れた海底に細粒の泥が沈殿、堆積して行った。堆積物が厚くなるに従い岩石化した泥岩は続成作用を受け、圧力や温度の違いにより種々の岩石が形成されていった。
この頃まで、揚子江地塊の大部分は海底だったという。川から運ばれた大量の砂が海底に沈殿していった。
一部は頁岩状、一部は泥岩状を呈していたと考えられる。これ等の地層が次の印支運動の時期を迎えると、
2 印支運動
 インドシナ、中国南部で起こった三畳紀後期(中生代初期、2億年前)の変動。多くの場合二畳紀(古生代末2.8~2.25億年、ペルム紀とも言う)から始まった。アジア大陸東部の全般的な隆起と、安定化をもたらした。中国南部では三畳紀前半に広がっていた海は次第に後退し陸化し、北部とつながる広大な陸地が出現した。
即ち硯石層が隆起を始め陸上に顔を出した。陸化した岩石は今度は浸食作用を受けることになる。
3 燕山運動
 中国の東部で中生代後期に起こった、火成活動を伴う地殻変動で、北京北方の燕山で発見されたことから名付けられた、
 中国では基本的に震旦系(先カンブリア紀)からジュラ紀に大きな傾斜不整合はないが、白亜紀から変成し、急角度に傾くジュラ系を覆っている点が注目され、中生代運動とも言う。この運動は中生代後半全体の長い期間、広い範囲に起こり、各地に酸性ないしは中性の火山活動と深成活動を伴って、褶曲と断層活動があった。古い造山活動によって台地化した地域に起こったのが特徴である。
この時代プレートの圧迫により大地は褶曲、断層を繰り返した。端渓周辺の斧柯山系、羚羊峡の対岸の北嶺の山塊はこの頃隆起したものであろう。西江によって2ヶ所で分断されているが、本来は一連の地層と考えられる。
(現在ではコンピューターにGoogle-Earth が有れば容易に見ることが出来る。図1及び2は10年以上前にコピーしたもので、現在はより精度の増した像と成っているので、そちらを参照されたい。)
この地域一帯から種々の硯石が産出されている。岩石の本質は頁岩又は泥岩であり、続成作用の条件は、全ての地域が同一の変化の起こる広域変成型ではなかったようだ。 圧や温度が異なれば当然異なった種類の硯石が出来てしかるべきである。
 その産状も異なっている。西江の南側、斧柯山の西斜面の硯坑は坑道状であるのに対し、斧柯山の東側の沙浦地域では露天掘りで山を切り崩して産出している。西側斜面の硯石に似ているが質は低級である。宋坑は地下に向かって掘ってはいるが坑道状ではないらしい。 我が家にある歙洲硯は明らかに頁岩であるが、どうも、端渓は層構造のはっきりしない泥質岩のようだ。
硯としては爛柯山系の石質が最も優れている理由は、この坑道状に産出されることに原因がありそうだ。
熱水鉱脈か。金の鉱脈を初めとする多くの鉱物資源は火山が関係していることが多い。即ち近くに必ず火山がある。又はかつて近くに火山が存在していたか、又は地下からマグマが上昇してきたか、どちらかである。後者の場合、近くで花崗岩等の深成岩が見られるはずである。
我が国では『日本の岩石と鉱物』という本が通産省工業技術院地質調査所から発行されていて、日本国内の全ての地質を、誰でも見ることが出来る。又各県毎の詳細な地質図が発売されていて容易に手に入れることが出来る。
 しかし中国ではこのような調査が行われているとしても、発表されることは考えられない。しかし各省毎の地図は発売されていて、専門店で注文すれば手に入れることが出来る。広東省の地図を購入して、じっくり眺めてみた。 西江の河口は東に香港、西にマカオである。 河口の少し上流に広東市がある。 西江を北上して行くと、肇慶市(ちょうけいし)がある。ここが、かって肇慶府がおかれた場所である。 この街の郊外に黄岡村があり、ここで端硯がつくられていた。江を少し下ると羚羊峡という峡谷がある。相当高い山が両岸にそびえ、二つの山塊はもともと繋がっていたと考えられる。 川はこの二つの山塊を切り裂くように流れている。両岸の山の北と南には平野が広がっている。 水は低きに流れる、何もこの山を切り裂かなくても良い。元々は平らな地形に流れていた川の周辺が徐々に何万年もかかって隆起した結果出来た地形としか考えられない。 よく見ると、肇慶市の上流でも、このように山を切り裂いた場所がある。この地域一帯が褶曲によって隆起した地形であることが推定された。  
 端渓は羚羊峡の出口近くに、南から流れてくる小渓である。この東側にある斧柯山(爛柯山)から水岩、麻子坑、坑仔巌等の有名な硯石が産出される。 不思議なことに端渓水の西側からは硯石は全く産出されないとのことだ。 恐らく端渓水は断層に沿って流れているのであろう。
熱水鉱床を考えていたが、近くに火山があった形跡は無い。花崗岩等の貫入に付いての記載は無く、お手上げ状態であった。
 こんなことを考えながら地質学、鉱物学、岩石学の本を読み漁っている時、地学字典にこんな記載が見つかった。
擬熱水溶液
 熱水溶液を構成した水がマグマ水でなく、変成水ないし天水の場合をいう。これに対しマグマ起源の熱水溶液を真正熱水溶液ということがある。岩石中の孔げき水、毛管水、構造水が変成作用を受けて熱水となり、その発生時と上昇期に鉱物成分を取り入れて熱水溶液となる(変成水の場合)。天水は適当な水理地質条件の時に地殻の深部に浸透し、加熱、鉱化されて熱水溶液の性質を備える。
 この文を発見した時は、大変な喜びであった。マグマがあっても無くても熱水は生まれることが解れば推理は前進する。
粘土化作用
 熱水液の作用により岩石が粘土鉱物に交代される作用。岩石は火成岩でも、水成岩でも風化されると粘土となる。熱水で粘土化作用があり、緑泥石化作用、絹雲母化作用、カオリン化作用、モンモリロライト化作用、パイロフィライト作用などがある。
再結晶作用:
変成作用の時に固体岩石内に起こる鉱物の変化、鉱物の間の反応、新しい鉱物の生成を再結晶作用と呼ぶ。地下で温度が150度くらいで起こり始め、300度を超えると広く進行する。650度になると岩石の中には部分的に融け始めるものが出来る。温度が高まって岩石の大部分が溶けて全体が流動し始めればマグマである。マグマが冷えて固まったものが火成岩である。
 岩石中で固体(少なくとも大部分が)の状態で新しい結晶が出来ること。石灰岩やチャートの再結晶の様に同じ鉱物が出来ることもあるが、一般には原石の鉱物とは別の鉱物が出来るので、新鉱物形成作用ということがある。
 再結晶は温度、圧力等の外的条件が変化し、原岩の鉱物が不安定になって、新しい鉱物が成長することにより起こる。
 多くの変成反応では固相の体積は再結晶により減少し、その場の圧力が減少し、再結晶は起こりにくくなるが、この状態は力学的にも熱力学的にも不安定で、変形や物質移動により、圧力が一様になるまで再結晶は進行する。
熱変成岩では広域変成岩に比べて再結晶が悪いのは、変形を伴わないためだろう。再結晶の臨界温度も変形を受けると低下する。再結晶は結晶の内部が変形ひずみを持つ場合には促進される。焼きなましの現象である。結晶形成に関する理論は難解であり、ここまで来ると理解不能の状態となる。
製鉄の科学は鉄の結晶の科学である。いくつかの本を当たったが、素人には到底理解出来ない領域である。
雲母
 雲母は最も普通の造岩鉱物で、酸性~塩基性化火成岩、大部分の変成岩、更に堆積岩にも白雲母、パラゴナイト、海緑石が産す。色は黄、褐、緑、黒、桃、紫で薄片で多色性顕著である。
加水雲母
 絹雲母に似ているが、それより複屈折の低い、細かい雲母鉱物。近代の研究によれば、雲母粘土鉱物の一種であって、化学分析値では白雲母より水分が多く、アルカリイオン少ないなどの相違が認められている。しかし単一鉱物であるか否かが疑わしい。カオリン鉱物と微細な雲母鉱物との混合体、雲母とモンモリロナイトの混合層の疑いがあるものも多い。火山岩の熱水変質鉱物として産する。
白雲母 
理想式はK2Al4Si8Al2O22(OH2F)であるが一般にはMg, Fe2+、Fe3+、を含んでいて
K2(Al,Fe3+,Fe2+,Mg)4(Si、Al)8O20(OH、F)
と表される。白雲母の理想式の2Alが(Mg,Fe2+)でかなり置換されたものをフェンジアイトと呼ぶ。
産状:泥質岩起源の結晶片岩、片麻岩、千枚岩などの変成岩。或いは花崗岩、その他酸性火成岩およびペグマタイトなどにごく普通にふくまれる。またしばしば長石、紅柱石、コーディエライトなどから二次的鉱物として生ずる。
 非常に細粒の白雲母を絹雲母と呼ぶことがある。一般に板状で産出
即ち二価の鉄イオン、三価の鉄イオン、マグネシウムは雲母の結晶内に入っているのであって、赤鉄鉱単独の結晶ではないのである、この白雲母より更に微細な結晶が絹雲母である。 個々の結晶には鉄、マグネシウム、アルミニウムが微量に含まれている。
 掘秀道著『楽しい鉱物学』の中に「きらら」と呼ばれる雲母の記述がある。この鉱物は古くから研究され、結晶構造も分かっているらしい。雲母は工業的合成も可能とのことで、耐熱性に優れ、ストーブの窓に用いられていたり、電気の絶縁性にも優れており、電気関係などに用途が広いと言う。更に良質な絹雲母は化粧品の基本原料として重用されているとのことである。ここまで研究が進んでいながら、硯の材料としての雲母鉱物の記載を見ることが出来ない。
 しかし白雲母の結晶構造の中のアルミニウムイオンが鉄とマグネシウムイオンに交代している物質が黒雲母であり、鉄とマグネシウムの割合は自由に変化するとのことで、マグネシウムだけになると金雲母、鉄ばかりになると鉄雲母となる。雲母は高温低圧の条件(マグマ)では黒雲母が生じやすく、比較的低温高圧の条件の変成岩では白雲母が生じやすいとのことである。 以上の文章から岩石の形成過程で、多くの金属イオンが結晶内を移動し、交代して様々な色を発色させ、石紋を形成することがある事が可能である事が分かった。 
しかし一つ一つの結晶は透明に近い。結晶の集合が硯の複雑な色を決定し、石紋を形成するのである。偏光撮影で大西洞水岩の翡翠紋を撮った写真(写真5)と、実体顕微鏡(写真42、43)で撮った写真の違いは焦点深度の違いである。 即ち偏光写真では硯の表面だけでなく、少し奥の色も写しているのである。それに引き換え、実体顕微鏡写真では焦点は硯の表面だけである。 硯の色を決めるのはこの金属イオンである。特に赤系の色はマグネシウムの含有量に左右されているように思う。アルミニウムも赤系の発色をすることもあると言う。 あの臙脂暈の化学構造式が分かれば面白いのだが。 これ等イオンの移動には熱水が不可欠である。更に圧や温度の変わることで、硯石は何回も異なった変成が加わった可能性がある。これ等熱水内の雲母鉱物は地殻変動で圧が低下し温度が下がるに連れて石化が進み硯石になったと考えられる。絹雲母化せずに残った周囲の粘土は結晶化して黄臕又は金線、冰紋に変化したのであろう。以上が斧柯山系の坑道状に産する硯石の形成に間する推論である。この推論上では水岩も麻子坑も坑仔岩も同一の形成過程をふんでいるものと考えられ、石質の良非は変成の条件によって決定される。水岩だから必ずしも絶対に上質とは考えられない。麻子坑でも坑仔岩でも変成条件が合えば、水岩以上の石が生まれても不思議はないということである。私の推論では、「端渓の歴史は水岩の歴史である」と言う相浦紫瑞氏の理論を完全に否定するものであり、水岩の神話は崩れたといっても過言ではない。今後残るは大西洞神話しかない。