6.大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯

 (写真 1~11参照
 この大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯は、平成5年5月(1993年)清雅堂店主、廣瀬保雄氏より譲っていただいたものである。硯名も氏から聞いたものである。
 清雅堂は書道用品の販売だけでなく、法帖の出版をしている、この書道界では知らぬ人はない有名な店である。2階のショウウインドウには宋代以降の古硯が展示されている。何回か店を訪れたが、店主が居ないので2階の古硯コーナーには案内してもらえなかった。店主の廣瀬保雄氏は東大卒業後、二代目社長を継ぎ、独学で中国古書の研究をし、法帖を出版するのが本業である。 また硯の鑑定でも知られた人であることは後日分かって、冷や汗をかいたものである。
そんな有名人とは知らず、たった2~3年、ただ本を読んだだけの素人客が、生意気にも、青花と魚脳凍のある大西洞硯で、硯板状の硯があったら見せて欲しいと言って、飛び込んで行ったのである。
しかしその言葉が2階の古硯コーナーを見せる気になり、案内されたのであろう。
この頃私は大西洞水岩以外の硯には全く興味が無かった。素人には、大西洞以外の水岩は、他の坑との鑑別が難しく、特に坑仔岩、麻子坑の良質なものを水岩と称していることが多いと考えていたからである。『図説端渓硯』では水岩を本坑、傍坑、そして大西洞の三洞に分け、本坑の北宋時代初期までの硯をもって下巌としているが、私は下巌硯を探すつもりは全く無かった。このような硯が民間に有るとは考えていなかった。明代の老坑水岩も本坑と傍坑の差異については『図説端渓硯』の記述の方が理解しやすかった。しかしどの書を読んでも、大西洞だけは今までの水岩石に見られない特長がある様に書かれていた。その一つが臙脂暈である。古来硯の色を表現する場合いくつかの決まった表現がある。青紫色(下巌)、淡紫色(中岩)濃紫又は帯赤紫色(上岩)、灰蒼色(半辺山諸岩、飛鼠岩)、帯灰淡紫色、帯微紅灰色、帯微紅青白色(相浦紫瑞、傍坑)、帯濃青淡紫色(中期大西洞)、帯淡青淡紫色(中期大西洞、後期大西洞)等の表現がある。端渓硯は山坑でも、緑端を除き、全て紫色が入った色と考えられてきたが、この色は実物を見たことがない者にとって理解が出来なかった。しかし最近質の良い写真を載せた本が出てきて、ようやくこんな色かと理解できたばかりである。『図説端渓硯』の巻頭の佛手柑天然硯の臙脂暈は非常に参考になった。青花の写真はほとんどが白黒で玫塊紫青花の色が出た写真は未だ見たことがない。この青花も臙脂暈が周囲を取り囲んでいるとのことだ。青花結も周囲を臙脂暈ないしは黒線で囲まれていて、この青花も乾隆期大西洞の特徴だという。次に魚脳凍であるが、この紋は坑仔岩や麻子坑にも出ることがあるとの事だが、魚脳凍内に青花、特に青花結が見られる硯は大西洞以外にないとのことである。又大西洞硯は貴重で採取量も少なかったことから方硯は少ないとのことだ。『図説端渓硯』でも大西洞は原石を出来るだけ生かした自然形が多い。中に石質の良い部分だけを方形に切り取った、硯板形式の硯が多いように感じた。いずれにしてもこのような形態をずべて備えた大西洞硯がこの世に存在するとは考えていなかった。 
所が、あるとは全く思って居なかった硯と現実に遭遇したのである。 出てきた硯を見て思わず背筋が寒くなった。ため息が出て、しばらくは声も出なかった。 箱も黒檀で彫りもしっかりしている。間違いなく古硯である。 大きさは28.3×13.9×2.5cmという大西洞としては考えられない大きさの方形の板硯であった。 窓際のテーブル上に置かれた硯には水を注ぐまでもなく、玫塊紫青花が見られる、魚脳凍、魚脳砕凍も白くはっきりしている。更にこの魚脳凍内にも青花が見られる。
「呉蘭修の言う乾隆期大西洞水岩でしょうか」と聞くと、廣瀬氏は黙って硯を箱から取り出し、裏返してくれた。これにも驚いて声も出なかった。
「大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯」と言います。紙に書かれたこの硯の名前を見て山水画内に彫られた4人の人物の一人が薪を背負った樵で、一人は漁をする漁師であることが分かった。そのほか山荘で読書をする人、あと一人は農夫である。彫りは浅彫りで、相浦紫瑞著の『百華硯譜』で言う所の浅彫りで、乾隆期の特徴を示している。 
「波は毛彫りで、全体が浅彫り。乾隆彫りでしょうか」
「そうですね。水を垂らしてみましょうか」
といって水滴に水を入れてきて硯面に水を置いていった。
とたんに硯の色が変わった。これを青紫色と言うのであろうか。臙脂暈もきれいな色をしている。 上方には天眼に見立てた翡翠がある。月の表面のような模様が見られる、この周囲を臙脂暈が取り囲んでいる。上部1/3は焦葉白である。この部に斜めに走る青花。この先端はあたかも微塵青花である。 右上方に蟻脚青花状の白い点。 典型的な玫塊紫青花が2顆、蠅頭青花、雨霖墻青花、青花結、まさに青花のオンパレード。魚脳凍及び砕凍は純白であたかも空に浮かぶ雲の様だ。 金線はあくまでも細く品がいい。 魚脳砕凍の下に蜘蛛の巣状の白い線、これは氷紋か又は銀線か、もし氷紋ならこの硯には、眼が無いだけで、それ以外の大西洞にしかないといわれる石紋が全てがそろっていることになる。今まで見てきた硯の写真の中にもこれほど完璧で、素人の私が見ても大西洞だと分かるような硯に出会った事が無い。生涯これ以上の硯に出会うことは無いであろうと思った。
「まさに呉蘭修の本に書いてある通りの硯ですね。これほどの硯がこの世に存在しているとは思いもしませんでした。呉蘭修はこの硯を見ながら文を作ったというような硯ですね」
「そうですね」と廣瀬氏はうなずいた。寡黙の人だ。自分からこの硯に付いての説明は全くしない。しばらく硯に見入っていた。この硯はこの機会を逃すと二度と出会えない気がして来た。 欲しいと思った。 思い切って、
「これは展示品ですか、それとも譲っていただける品なんでしょうか」
「ご希望があればお譲りしますが」と返事が返ってきた。恐らく値段は数百万はするであろうことは予想できた。
「値段をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「このような硯は滅多に見ることがありません○○○○○でいかがでしょうか」
予想していた通りの値段であった。
「呉蘭修の硯直の項で大西洞は水岩の他洞に十倍すると書いてありました。まさにその通りの値段ですね。ちょっと考えさせて下さい」
黙って硯に見入った。問題は金の工面をどうするかであった。妻にこの金を出してくれといえば何が起こるか想像も出来ない。分からないように銀行から借りるより他はない。後一つ、今持っているゴルフ場の会員権を処分すればどうにかなる金額であった。たまにしか利用しない会員権であった。十年前に先輩から譲り受けたもので、最近会員権が暴落してきているが、まだ今売り払えればこの硯を買ってもお釣りが来る。問題は本当に売れるかどうかである。
どうにかなるか。ようやく腹が決まった。10分は考えていただろうか、この間、廣瀬氏も黙って一緒に硯に見入っていた。
「この硯を買わせていただきます。ですが、値段を少しまけていただけないでしょうか。なんせ怖い女房がいるものですから」
「そうですね、値段を下げるわけには行きませんが、あと一つある水岩の板硯を硯に作り直した小さなものがあるんですよ。この石も見事な石紋です。ご覧になれば分かると思いますよ。 こちらを半額にしますのでそちらとあわせてあと10万程上乗せするということでいかがでしょうか」
相手は私が太刀打ち出来るような商売人ではない。2面の硯を売りつけようとしている。いやならこの値段で合意すればいいだけだ。その小さい水岩も見せてもらうことにした。出てきた硯は函を見て古硯であることは分かった。12.5×12×1.5cm大、でほぼ正方形に近い小さなもので、硯面全体が焦葉白で真ん中に青花結が一つ出ている。廣瀬氏は墨を用意してきていた。
「どうぞ磨って見てください。鋒鋩も抜群で、写経には最適な硯です」
 まず硯面に軽く手を当ててみた。本当に乳児の肌のようだ。墨の下りは抜群であった。私の持っている歙州硯にも劣らない。それに歙州硯の様な金属的な音がしない。
「なるほど、私は今歙州硯を普段使っているんですよ。着墨が無いんで後始末が楽なものですから。これは時々墨を下ろしているようですが、あまり着墨していませんね」
「端渓硯はやはり手入れが悪いと着墨しますね。手入れ次第ですね」
「所でこちらの大西洞には墨を下ろしたことがありますか」
「これくらいの文化財級の硯には滅多に墨を下ろすことはありませんが、良くご覧になれば分かりますが、誰かが一度墨を下ろしているようですよ」
「とするとこの大西洞は実用硯でなく、鑑賞硯と考えたほうが良いでしょうね」
「買った人がどう考えるかでしょうね。こちらの小さい硯は間違いなく実用硯です」
「なるほど。大西洞を横に於いて鑑賞しながら、この小さい硯を使って文章を考える。まさに文人趣味ですね」
 確かにこの大きな大西洞は実用硯では無い。実用に使える水岩をもう一枚用意する。さすが商売人、うまいことを考えるものだ。藪をつついて蛇を出してしまったが、この蛇もまんざら捨てたものではない。10万の上乗せで2面購入することにした。
「この小さい硯も合わせて買いましょう。ただし代金を準備するには少し時間がかかります。1ヶ月以内に準備しましょう。支払いはいかが致しましょうか。銀行振り込み、小切手、現金、どちらでも結構です」
「このような品は全て代金と引き換えにしていただくようにしています。出来れば現金でお願いします」とのことであった。
名詞を交換して私の商売がばれてしまった。
「やはりお医者さんでしたか。初めからそんな感じがしていました」
「書家でもない、私のような者がこのような立派な硯を手にしていいんでしょうか」
「書はどれくらい」
「5年ほど前から少し、恥ずかしくて人に見せたことはありません。知り合いの和尚さんに弟子入りしようとしたら断られました。その和尚がこの店に来ればほとんどの法帖がそろっている。書はいい字を見て真似をすることから始めるものだ、と言われまして、時々この店にも来て法帖を何冊か買って練習しているんですが、一向に上達していません。その内に硯の美しさに惹かれ、むしろ硯の研究のほうが楽しくなってしまって。変な人に嫁いでしまって、この硯にはかわいそうだなと思います」
「いや、この硯を理解してくれて、いつまでも大切に扱ってくれる人の手に渡るならこの硯は幸せですよ。私も安心して手放す事が出来ます」
「私もこの硯を人類の文化遺産と考え、一時お預かりしていると思って大切に扱いましょう」
「よろしくお願いします」
この言葉は廣瀬氏がこの硯に、いかに愛着を持ち、いつも眺めて楽しんでいたかをうかがわせた。自分の一人娘を嫁にやるような心境なのであろう。この硯の値段を聞いて、私が驚かなかったのは、私がただ骨董集めが趣味の旦那では無い事が分かって、手放す気になったのだと感じた。
 1ヶ月後この硯は自分の物になった。この硯を時々水に沈めてみると心が落ち着く。その内この硯を見る時間によって硯の色が微妙に異なっていることに気が付いた。夜、蛍光灯の下では青系の色が強くなり、日中太陽光の下では臙脂色が強く出る。どうにかしてこの色の違いを写真に収められないものかと考えて、何回も手持ちのニコンFT3にマクロレンズを付けて撮影したが、思ったような色が出なかった。こんな状態が1年続いた。
 偏光撮影技法がある事はこの頃知ったのはこの頃であった。光原に偏光フィルターを装置し、更にレンズにも偏光フィルターを装着することで、硯を水に沈めたと同じ状態を作り出せることが分かった。この装置でニコンFT3で撮影した大西洞硯には見事に臙脂暈や青花が描出されていた。この写真をA4版に拡大して現像されたものを、スキャナーで読み込み、フォトショップというプログラムで加工すると、硯面は10倍で拡大された写真を作ることが出来ることが分かった。この技法でこの大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯を、あたかも水に沈めた時の状態を再現できた。更にフォトショップというプログラムで自由に色を変えられる事も出来た。昼間正午頃硯を水に沈めた時の色、夜間蛍光灯下で見る硯の色、自由自在である。だが、この撮影技法は端渓水岩硯に対してのみ有効であった。麻子坑硯はこの撮影技法で色は見事に再現出来る。しかしフォトショップで加工してもこの硯の持っている色以上の色を出すことは出来なかった。歙州硯はこの撮影技法ではむしろ硯の特性が損なわれる結果となった。これは端渓水岩大西洞硯の硯石の結晶の透明度が高く、硯面より下の結晶の色が描出されてくると考えられた。すなわち大西洞以外の硯石の色はただ表面の色が描出されているだけに過ぎないことが分かった。大西洞硯の結晶は透明度が高いということである。
 端渓硯の微細構造を知るべく、以前よりあった実体顕微鏡を使い、硯石のサンプルを龍鳳から購入し、検討を始めたのはこのころであった。
 『新説端渓硯』と言う本が清雅堂から出版されたのを知ったのは平成6年6月であった。著者は劉演良。相浦紫瑞氏が『図説端渓硯』の末尾に日中端渓硯研究会が福岡で開催された際、発表原稿を渡されたとして、原稿を翻訳してその全文を掲載していた。恐らく同じ頃、この本は中国で出版されたのであろう。 日本語への翻訳は廣瀬保雄氏が選ばれた。理由は恐らく、廣瀬保雄氏が古書、碑文の研究者としても中国で名前が知られていたからであろう。
 今にして思うに、私がこの大西洞を購入した時、廣瀬氏はこの硯を傍らに置き翻訳の作業をしていたものと思われる。私が呉蘭修はこの硯を見ながら文を考えていたんでしょうかと言った言葉はまさに正鵠を射ていたのではないだろうか。 私がこの硯を買いたいと申し出た時の寂しそうな顔は、まさの氏の心境だった。大切にしていた硯も、この本を出版するための資金にしなければならなかったのであろう。
 思うに、硯癖のある人で有名な書家もいれば、書は全く残っていない人もいる。この硯が世にでて約300年、この間、何人の手を経て来たのであろうか。その記録は残されていない。ただこの硯の前の所持者は、劉演良の『新説端渓硯』の翻訳をして出版した、清雅堂社長の廣瀬保雄氏であることを記録に残すべくこの文を記す。