4.図説端渓硯史

『図説端渓硯』相浦紫瑞著 木耳社 H4年(1992年)12月発売

1990年1月先輩の奥様より紅紫色をした方硯を頂いた。24.5×15.8×5.0センチ、重さ5Kgもある巨大なもので、硯縁全周に龍と鳳凰を刻し、右側面に小篆文字、左側面には金文が刻されていた。小学校で小さな黒い色の硯しか見ていない者にとって、稀有な骨董品にしか見えなかった。更に右の小篆文字を辞書を頼りに読み進めると、なんと杜甫や李白の名前まで出てきた。結局この文は韓愈の「酔留東野」という詩であることが解ったが。墨を下ろすことなど恐れ多く、床の間で国宝扱いをされていた。この硯の実体を知るべく硯に関する本を買い集めたというのが、実の話である。H4年12月『図説端渓硯』が発売されたのを知り、本屋に急行した。この本をぱらぱらめくっていると、見覚えのある硯の写真が眼に入った。我が家の家宝であった。なんと、この硯には「模造紫色硯」と二つ名まで付く立派な硯の贋物であった。重いはずで、鋳物の上をプラスチックで覆い、型押しをして作ったものである。この硯が1970年頃、国内に大量に出回った様で、被害を受けた人が多いと聞く。我が家では購入したわけではないので、直接的な被害は無いのだが、この間、集めた辞書や、硯に関する書籍の額は膨大になっていた。家に帰って早速墨を下ろして見たが全く墨が下りない。つるつる滑るだけ!

この本を見てまず感じたことは、もし初めにこの硯に墨を下ろしていれば、直ぐに贋物と気がついたはずである。此れを、唐代の硯で、国宝級などと思い込んだところに失敗があった。どうも硯の世界はこのような問題が多いようだ。高い金を払って買った硯に傷でもつけては、と恐れて、ほとんど使用せず、床の間に飾ってある硯が多いのではないだろうか。やはり硯は実際使ってみなければ、その良し悪しは解らないのではないか。しかし、そこが贋物を作って売る業者の狙いでろう。文化財級と折り紙をつけておけば、まずばれるはずが無いことを知っている。高ければ高いほどばれることは無い。洮河緑石といわれて買った硯を実用硯に使うのは皇帝くらいであろう。博物館や記念館に入ってしまえば、もうその硯は何百年も命を保障されたようなものだ。
今まで写真の入った硯の解説書は何冊もあった。写真の硯譜も何冊か見た。だが、この本、『図説端渓硯』程、石紋がきれいに写っている写真は今まで見たことが無かった。この著者は、かって金沢の書道店、文真堂より『百華硯譜』2巻を発刊している。この本を知ったのは『墨』スペッシャル11、文房四宝の全て(1992年発売)であった。初巻は手に入らなかったが2巻目は手に入れることが出来た。この本の写真も良かったが、青花のきれいな硯は見られなかった。この図説端渓硯には10面のカラー写真が載っている。その中に4面に臙脂色がきれいに現れている。

福寿長方硯は水岩で鉄奈の周囲に臙脂暈が現れている。氷紋硯は乾隆期の大西洞水岩とのことである。名前の通り氷紋が見事である。周囲に紫色に近い臙脂暈が見える。登龍硯も乾隆期大西洞水岩とのことで、魚脳凍の中に2つの鸚哥眼が見られ、この周囲を臙脂暈が取り囲んでいる。もう1面が佛手柑天然硯である。これも乾隆期大西洞水岩の石とのことである。この周囲に見られる臙脂色はこの4面の臙脂暈の中で最も美しい。呉欄修は臙脂暈は乾隆期の大西洞に現れるものが最も美しいと述べているが、まさにその通りなのであろう。

この本では様々な青花の白黒写真を紹介しているが、やはりカラー写真で紹介して欲しかった。しかし硯の写真をきれいに撮ろうとしても、青花は水の中に沈めなければ現れてこない事が多く、写真撮影が困難であろうことは、写真を趣味にしている人ならば分かることである。

次に、この本は完全な水岩神話の解説書である。
本書記述の特徴として、「水岩坑は山坑に比して抜群の石質、石紋を有している」として、「現在伝世されている美術工芸品の端渓硯はほとんどが水岩坑の美石が使用されている事から、端渓の歴史は水岩の歴史である」と言う観点に立って記述されている。その為再開前の諸硯史にはあった小西洞、東洞、正洞の分類も本坑(正洞)と傍坑(小西洞、東洞)に改めている。次に著者が実際に水岩坑まで足を運んでいて、更に大西洞内に入り、硯石層を確認し、ここで一部の硯石のサンプルを採取させてもらっている。この事から、何傅瑶の『宝硯堂硯辧』や呉蘭修の『端渓硯史』に記載のある水岩坑内の硯石層を三層五層に分類する説を完全に否定し、更に『宋端渓硯誌』の南壁、北壁の概念をも否定しているので読みやすい。また端渓硯に付いて理解しやすい良著である。清代の多くの著作は主に大西洞の鑑別書であって小西洞、正洞、東洞との違いを述べ、更に山坑との比較を行っている点で大いに異なっている。この書には山坑に関する記述は、わずかである。水岩は明かに山坑より質がいいという観点で述べられている。

清代の書物では水岩坑と西江との位置関係、距離等について理解しにくい。
『端渓硯史』には5枚の図が見られる。端渓総図一、羚羊峡図二、峡南図三、峡北図四、老坑内図五、から頭の中に端渓周辺の地図を組み立てることは困難である。現在私共はコンピューター内にグーグルアースというプログラムをインストールして於けば、世界中のどの地域でも空から眺めることが出来る。
中国硯の二大産地を訪ねる旅(1995年)をこのグーグルアースで辿ってみよう。香港を夜7.30分船で出発、珠江デルタの水路を進み、翌朝西江に入り、7.30分頃羚羊峡を通過、8.00分に肇慶市に到着したとある。香港、マカオの北に広州市がある。この西に肇慶市がある。広州市の平野は日本の関東平野に匹敵する広さであろう。ここを西江が網の目のように支流を作り。香港とマカオの西側に巨大な河川となって支那海に流れ込んでいる。羚羊峡を空から見ると実に不思議な景観である。西江は羚羊峡の山を貫いている。山を貫かなくても北と南には平地がある。なぜここを通らず山を貫いたのだろうか。あと一ヶ所、肇慶市の北でも同じように山を切り裂き西江が流れている。、良く見るとこの羚羊峡を含む山は肇慶市の北の山脈、北嶺と一連の褶曲帯である事がわかる。羚羊峡の東、出口に近い部分に斧柯山がある。現在この周辺は紫雲谷と名付けられた観光地になっていることが地図の上でもはっきりわかる。

相浦紫瑞氏が訪れたのは1980年代後半と考えられる。まだグーグルアースは存在しない時代であった。彼らは船で西江を下り、約18キロで端渓川合流部に達する。上陸地点より30m位の場所に門柱があり更に100m程進むと水岩坑の入り口に達するという。水岩坑入り口と端渓川との間に水田が広がり、川の斧柯山側に高さ約3mの護岸工事が行われているという。すなわち水岩坑入り口は端渓川より3m高いところにあり、西江まで100mはあると言う。川から水岩坑付近を写した写真が良くその地形を表している。後ろに見えるのは斧柯山であろうが、山肌は樹木に覆われているわけではない。頂上の稜線に、まばらに木が並んでいる。斧柯山一帯は岩石が露出した地層のようだ。端渓川を上流に向かって左側が斧柯山系であり、硯坑が多数存在する。しかし右側の山からは硯石が全く取れないという。この川が断層の境界なのであろう。更にこの端渓川の流域にしか硯坑が存在しないという。端渓川を上流に800m程遡ると川は小さな渓流となる。この左手に麻子坑があるのだという。『端渓硯譜七種』の巻頭に1984年楠文夫氏が坑仔岩より撮った写真と併せて、周辺の地理が理解しやすい。

私は端渓硯の形成に関して、従来の説にいくつかの疑問を持っている。この相浦紫瑞著の『図説端渓硯』でも坂東貫山の説をそのまま踏襲して硯石が輝緑凝灰岩であると述べている。斧柯山諸岩はほとんど坑道状に産する。輝緑凝灰岩が果たして坑道状にある岩石なのかどうか知らない。しかし沙浦石は山全体が硯石であり、建築用に採取される石の中から紫色を呈したり、緑色を呈する石を選んで硯にしている。宋坑は地下に向かって掘り下げられていると聞くので、恐らく層状の貢岩として産するのであろう。端渓地区で産出される硯石は地区ごとに生成過程が異なっているように思える。この違いがわかれば硯の鑑定はいとも容易になるはずである。硯石学は硯石の地質学的、鉱物学的特性を解明する学問であると思っている。従来の硯の解説書は総て、硯の鑑定のための書である。その点から考えるならばこの書はまだ、硯の鑑定学である。
中国では清末の1999年殷墟より甲骨文字が発見されて以後現在まで、多くの墳墓が発掘され、出土品には硯が添えられている事があると言う。多くの博物館でそれを見ることも出来るようで、硯の歴史を知る上で朗報である。これ等の出土硯についての記述は清代の硯の解説書には見られなかったことである。王義之の墓が見つかったという報告はまだないが、将来王義之が使った硯が見られるようになるかも知れない。

漢代の硯は乾隆帝が集めて西清硯譜に記載されたもの以外見ることは無かったが、多くの漢墓の発掘で同じ形態の硯が出土しているという。現在伝世している硯では唐代の硯が最古である。硯の歴史は今後出土品の研究が重要に成っていくだろう。
特に各時代の硯形を知ることは、硯の時代を鑑定する上で重要な手掛かりである。
唐代の端渓硯としては『欽定西清硯譜』巻七に「唐褚遂良端渓石渠硯」と「唐観象硯」が見られることから端渓硯の採掘は唐代に始まったとしている。しかし唐代の端渓硯はこの2面の他、出土硯が数面見られるだけである。この著書に唐代の風字硯の写真が見られる。この硯が出土硯なのか、または『墨』スペシャル11(1992年発刊)上に載せられた風字硯なのか記述がない。出土硯を含めて唐代の硯には下巌の石では無いとの事だ。
五代の南唐では歙州硯を官硯としていて、端渓硯に関する記録が見られない。唐末、五代の墳墓よりの出土硯には下巌石は見付かっていないとの事で、伝世品も皆無とのことだ。

宋代になると、南唐より宋に降った蘇易簡(958~996年)の『文房四譜』の記載に「水中の石は青く、山半の石は紫、山の絶頂にある石は最も潤にして猪肝の如し」と言う文が見られることから、端渓の広範な場所から硯石が採取されていたことが伺われる。しかしこの文にもまだ下巌という坑名は無い。
米芇(1051~1107年)の『硯史』に初めて下巌という語が出てくる。蘇易簡の時代から約100年が経過している。しかしこの頃下巌は既に深く掘り進められた結果、採掘には費用がかかりすぎて採算が合わないので採石されていない、とも述べている。北宋は960年~1127年である。北宋末にこの下巌という言葉が生まれたことになる。
北壁石、南壁石という言葉は南宋(1127~1279年)時代の1131~1162年の間に編纂された、無名氏の『端渓硯誌』である。
相浦紫瑞氏は下巌と水岩同一説である。下巌は宋初に地表に露出している硯石が発見され、初めは露天掘りで採石されていたが、2mくらい掘り進んだところで山の裾に達し、以後は坑道状に掘り進むより他無かった。そして北宋末の米芇が活躍した頃、既に坑道内には水が溜まり、採掘が困難になっていたと考えられる。『端渓硯誌』で北壁、南壁の文字は、この書に著者の憶測より生まれた表現で、無視してよいとの意見である。しかしこの頃の下巌が現在の水岩であるとは述べているが、中岩、上巌が現代の、どの坑に当たるかについては、全く述べられていない。

現在、伝世されている宋代の硯は、ほとんどが山坑の石であるとの事である。下巌の硯は極くわずかしかない。しかしこの時代の山坑の石は優秀な石が多く蘭亭硯や蓬莱硯、緑端等下巌石と同等なものが多いという。中でも珊瑚鳥眼が多数出ている半辺山坑の石は灰蒼色をした抜群の名石で、多くは大史硯様式に作硯され、裏面に眼柱を立てて鑑賞用にしたことは、この時代硯を、ただ実用としていた時代から、美術工芸品の域まで高めたことに意義がある。下巌坑の石は青紫色が多く、全体が青味がかって見える。翡翠斑が出ることもある。又眼は少なく、稀に青花がでることもあり水岩の証であるとの事で、これに対し山坑の石は、おおむね一色で、例えば中岩石は落ち着いた淡紫色で、上岩の石は落ち着いた濃紫色か帯赤紫色を呈する。青色の混入が少なく、室内で見ても室外で見ても色彩に変化がない。水岩特有の翡翠紋又は点はほとんど出ない。
しかしこれ等半辺山、中岩、上岩等の山坑は宋代で終わりをつげ、明代以降の山坑からは良質の石が出なくなり、水岩坑が唯一の名石となったとしている。
下巌は1100年ごろから採掘されることが無く、その後300年間の深い眠りに就いた。元代には開採された記録が無い。

明代永楽帝(1403から1425年)になってようやく眠りから覚め、その坑が常に水中にあることから水岩と命名された。宋代には約30m掘り進められたが、明代には、この地点から更に50m程掘り進められたと考えられる。明代の開坑に関する記録は少なく、呉蘭修の明万暦28年(1600年)水岩初開坑説は、ここに開坑を石に刻んだと言う記録があるからである。
200年間に約50m掘り進んだと言うことから、1回の開坑で1m掘り進められたと仮定すると約50回は開採されたと推定している。この間清代になって命名された東洞、西洞等の傍坑が掘られたようだ。著者は劉演良と親交があった様で、氏の案内で坑道に入りこれ等傍坑の位置を確認したが、廃石で埋められていて、確認できなかった、とのことだ。嘉慶年間、小西洞での採石が記録されているのになぜ廃石で埋めなければならなかったのか。坑の下部の石で埋めることはまず考えられないことから。恐らく粘土様の沈殿物が充満して坑道を分からなくしたのであろう。
石紋の説明は呉欄修の端渓硯史とそれ程変わっていないが、大きな違いは、著者が水岩まで足を運び、実際に坑道に入って硯石層を確認していることである。
その結果端渓硯史で難解だった、三層五層説を否定している。更に北壁、南壁の記述も否定している。しかし、相変わらず硯石は輝緑凝灰岩であるとしている。

硯石学を自称するからには、硯石の地質学的、鉱物学的な研究も必要と考えられる。今までの硯史に新たに墳墓の発掘によって確認された硯に付いての記述は、今までどの書籍にも紹介されたことのない事実である。しかし漢代の硯は『欽定西清硯譜』には数面記載がある。墳墓よりの出土硯は各時代の硯の形式を知る上で重要である。しかしこの研究も歴代の硯の解説書と同列の、硯鑑定書である。
著者は明代に採掘されたと記述がある、小西洞、東洞を傍坑とよび、正洞を本坑とよび区別している。呉蘭修の『端渓硯史』や何傅瑶の『宝硯堂硯辧』に比し、三層五層説が無い分理解しやすい。更に、この書では傍坑の石を本坑や大西洞の石と比べ、青花は少なく、じみな感じの石と表現し、本坑の石は下巌の連続であるから、明初は重厚味があり青紫色で、明末になると火捺や青花が出始め、色も帯青淡紫色となり、より大西洞に近い石質になると論じている。宋代には下巌に劣らない石質の石が山坑からも出ている。更に水岩坑の大きさから考えて、下巌の石や明初の水岩石がそれ程多く産出されたわけではないことを考えると、現在専門家が明坑水岩と鑑定している硯の中には、多くの山坑の良質なものが含まれていると考えられる。
著者が言うように、その硯の製作年代が記された硯は皆無である。時代を決めるものは硯の形、刻と石質に拠るしかない。このような状況で、どのようにして、下巌の硯、明水岩(老坑)、本坑、傍坑、更に山坑の硯と鑑定するのか、呉蘭修や何傅瑶の記述だけでは困難である。多くの硯を見たり触れたりしたと自称する鑑定家が、これは老坑小西洞第二層の石だなどと鑑定する人の、鑑定眼には失礼ながら、感心する。よほど多くの硯と接しているのであろう。

清代は大西洞の記述で埋まる、まさに大西洞の鑑定学となる。呉蘭修は麻子坑や坑仔岩との違いを述べているが、相浦紫瑞氏は大西洞一色。清代の大西洞を初期(順治~雍正)、中期(乾隆~嘉慶)、後期(道光~光緒)に分けている。
清初になると石全体に青色が強く出る。基調とされる紫色は淡くなる。火捺は強く、中には黒色の鉄捺がでる。冰紋、魚脳凍も現れ、帯淡青白色となる。石紋青花が出揃う。
中期、この頃の石が水岩史上最も美麗な石とされる。青色が極めて強く出る。出方によって室内では黒く見える、帯濃青淡紫色と、全体が明るい色彩の帯淡青淡紫色に分けられる。次に清代初期の火捺が出なくなり、火捺が淡い帯青淡赤色に変わった臙脂暈が多くでるようになる。この臙脂暈は乾隆期以後の大西洞石の根幹を成す石紋と成るとの事である。後に述べられる石紋の解説では、乾隆期大西洞に出る臙脂暈は無上の妙品といわれるほどすばらしいもので、その後嘉慶や道光年間にも出ているが乾隆期を凌駕する物はでていないとの事である。この紋は大西洞独特の石紋といっても過言は無いとしている。
青花が完全な形で鮮明に出る。特に玫塊紫青花は大西洞を代表する青花で、乾隆期に出るものが最高に美しいとのことである。
魚脳凍は帯淡青白色でふんわりとした雰囲気を持ったものとなる。このような色彩の魚脳凍は乾隆期大西洞石以外には出ない石紋である
冰紋は白色で線に冴えたところがあり、馬尾紋もでる。焦葉白は大西洞をもって最高といわれるほど色彩に明るさがある。
眼は翡翠色をした鮮やかなもので、通常瞳は黒点であるが銀点のものが多く出る。これも大西洞独特なものである。
まさに大西洞神話の中心をなす物語になるであろう。呉蘭修も何傅瑶も表現こそ違うが大西洞特に乾隆期大西洞硯を以って最高としている点では変わらない。

臙脂暈、玫塊紫青花、魚脳凍があれば乾隆期大西洞と言ってもいいのかも知れない。此れくらいなら素人の私が見ても解るのではないか。水岩か否か、については素人では鑑別することは難しいし、又間違いなく水岩であると言う鑑定眼は持ち合わせていない。しかし大西洞、特に乾隆期のものなら私にもわかるような気がして来た。この本を読んで得た感想である。これから半年も経たない内に、この乾隆期大西洞水岩に遭遇するとはこの時考えてもいなかった。このような硯は博物館でしか見られないだろうと考えていた。
後期の大西洞は硯全体が帯淡青淡紫色のものが多くなるが、乾隆期大西洞に比べると浅い感じのものになる。上品ではあるが、一度乾隆期の硯を見た後では物足りなさを感じる。青花は鮮明さを欠きかつ少なくなる。眼も少なくなる。臙脂暈は更に薄くなる。これが後期の特徴の一つでもある。

清代後期に張坑という大西洞硯がある。清代最後の開坑時に採取された硯を張坑と呼んでいる。この『図説端渓硯』では記載が無い。この硯のカラー写真を『龜阜齋蔵硯録』に2面見ることが出来る。この硯の解説をここに紹介する 

梅花硯 清末 端渓
長20.6、寛13.8、厚2.1cm
此硯為“張坑”硯材製作、石色天青微紫、有金線、銀線、冰紋、火捺、魚脳砕凍、胭脂暈、微塵青花、蠅頭青花等名貴石品。硯上角刻倒掛梅椿、蒼頸有力。背刻子母龍於祥雲中
張之洞(1837~1909年)河北南皮人、清同治進士、1884年任両廣総督、嘗於光緒15年(1889年)開採大西洞硯石、這次所得硯石質量較高、爾後人們対此期間的優質硯、称之、“張坑”

この硯は張坑という硯材で製作されたもので、石の色は天青色で微かに紫を呈する。金線、銀線、冰紋、火捺、魚脳砕凍、胭脂暈、微塵青花、蠅頭青花等の貴重な石紋がある。硯の上角に倒れかけた梅椿を刻し、枝や幹の多数の皺は力強い、背面には母子の龍を祥雲中に刻している。

張之洞(1837~1909年)河北南皮人、清同治の進士である。1884年に両廣総督に任じられ、曾て光緒15年(1889年)大西洞硯石を開採、這い入り、得る所の硯石は質量共にやや優れていた。爾後人はこの期間の優秀な質の硯を“張坑”と呼んでいる。

玉銓斎硯 清光緒 端渓
長18.9、寛12.7、厚1.8cm
大西洞(張坑)硯石、石色青灰帯紫、有火捺、魚脳砕凍、金線、玫瑰紫青花、子母青花、背刻光緒庚寅(1890年)端洲玉銓斎銘、襯以浅刻双龍紋。
玉銓斎為清時在肇慶府(端洲)城内道前正街有名的端硯製作店

大西洞張坑の硯石である。色は青灰で紫色を帯びている。火捺、魚脳砕凍、玫瑰紫青花、子母青花がある。背に光緒庚寅(1890年)端洲玉銓斎と刻している。浅彫の双龍紋を襯(ほどこ)している。
玉銓斎は清時には肇慶府に在り、城内道前正街の有名な端硯の製作店である。

1972年水岩が再開された頃は明らかに、大西洞の、特に張坑先端を掘っていたと思われる。この頃の石がどのようなものであったか解らない。恐らく、張坑の石とそれ程代わらない石が出ていたと考えられるが、1980年以降採取されたと思われる石を「端渓名硯廠」の日本総代理店「龍鳳」で見たが、黎鏗師の銘が入ったもの以外、大西洞の特徴を持つ硯を見ることが出来なかった。相浦紫瑞氏も現在採取されている水岩石は石色、石紋共に清代に見られるような上品さに欠け、格調高いものは見られなくなっているとしている。あえて大西洞と呼んでいないところが、大西洞内に入った人の言である。火捺、臙脂暈は見られず、石の色だけが目立つ、青花は鮮明さに欠け、細い糸状の金銀線が錯綜して出ているものが多い、と述べている。時々魚脳凍や焦葉白の現れた硯が見られるとのことだが、これが再開直後に採取された石だろうと考えられる

石紋、石斑の記述は白黒ながら写真が添えられているので理解しやすい、呉蘭修の『端渓硯史』巻二石僕、石品の項の内容とほぼ同じという印象を受ける

この本の最後に興味ある文が載っている。
1984年(昭和59年)3月、中国の端渓硯研究家の劉演良氏と中国第一級の硯匠である黎鏗氏を迎えて、福岡で「日中端渓硯研究会」が開催されたと言う。この会で、劉演良氏の特別公演があり、公演終了後、相浦紫瑞氏は劉演良氏より公演原稿を渡されたとのことで、その全文を翻訳してこの本に載せている。

この文の最初に劉演良氏は、中国の四大名硯として、広東端硯、安徽歙硯、甘粛洮硯、山西澄泥を挙げている。即ち洮河緑石硯を実在の硯としている。文献上では確かに宋代、趙希鵠の『洞天清禄集』(古硯弁)に端渓下岩に負けないとの記載がある。しかしその後誰も見たことが無い。乾隆帝の『西清硯譜』にも集められた形跡の無い硯である。相浦紫瑞はこの本でも存在を否定している硯を、劉演良氏は四大名硯に入れている。劉演良氏もやはり中国人特有の古文献を大事にする研究者のようだ。

ただし、水岩坑の歴史に関しては、呉欄修と異なり、開採は初唐としている。相浦紫瑞もこの考えのようだ。とすると、下岩、水岩同一説と考えていい。しかし南壁、北壁に関する言及は無い。

劉演良氏は1972年の水岩坑再開採掘に参加した人である。再開前夜の状況、再開時の坑道の状況が語られている。
更にこの再開には地質学的な調査が行われたことも述べている。

端渓川は羚羊峡に南から北に向かって合流する小さな川であるが、この川の西側には硯石は産出しない。東側にある斧柯山にのみ硯石層がある。この川が断層の境界であることが分かる。硯石層は3層あり、最下層には水岩坑だけがある。この水岩坑の詳しい状態が語られている。

私の最も興味のある、硯石の鉱物学的な特徴も述べられている。これによると、硯石は泥質で緻密な塊状構造で、鉱物成分は主に雲母類(水雲母)や粘土によって成り立っている。輝緑凝灰岩ではないようだ。また赤鉄鉱、石英、緑泥石、炭酸塩鉱物も含む、その他微量の鉱物として電気石、金紅石、黄鉄鉱も含んでいる。
しかし赤鉄鉱が単独で結晶の形で存在しないことは実体顕微鏡を見れば明らかである。即ち鉱物が硯を形成するのではなく。様々な色を持つ結晶が集まって石紋を形成しているということには触れられていない。

赤鉄鉱は微粒状を呈し、それが集中して環帯状の暈を形成する、と書かれている。
私の考えでは、赤鉄鉱を含む結晶が微粒状に、又は集まって様々な石紋を形成すると言って欲しいところである。

魚脳凍や焦葉白は水岩の他に麻子坑や坑仔岩にも出るが、大西洞に出る紋が最高に美しい。魚脳凍の周囲には必ず臙脂暈や火奈があり、玫塊紫青花があると言う。現在文房四宝を扱う店に水岩と偽る硯があるので注意を要するとの事である。

劉演良氏は鉱物学者ではないので、地質学者の発表をそのまま載せているようだ。硯石の色、紋を考えるとき、結晶と言う概念なしに硯石の形成を語ることは不可能なはずである。中国の科学技術がまだ不完全な状態であっても、地質学者や鉱物学者がこの点について調べないはずは無い。恐らく研究はされているはずである。しかし発表はされていないのかも知れない。

いずれにしても今までの硯史では不可解な疑問がこの『図説端渓硯』でいくつかが解明された様だ。今までの全ての説は、実際坑道の中にまで入った人の説ではないことにあった。呉欄修も恐らく坑道の中には入っていない。皆硯工から聞いた話を基に書かれた文である。更に、ほとんどの硯工も坑道の中までは入っていないであろう。坑道に入った人たちは金で集められた、いわゆる人夫である。これ等の人が硯石を論じられるはずが無いのである。全てが硯を作る職人の作り話と言ってよい。彼らは都合の良いことだけ話す。

乾隆帝の在位は1935年から1796年の約60年に及ぶ。この時期は清朝の最も華やかな時期である。しかし水岩の開坑は記録で見る限り4回しかない。採掘された硯石は現在ほど多くはないはずである。硯の製造で生計を立てている黄岡村、五百余家なら1年で硯石はなくなる。その後、彼らは坑仔岩や麻子坑で採れる、眼があったり、暈や焦葉白の見られる良質な石を水岩と偽り販売していたに違いない。現在古硯の水岩の中にはこの手の硯が多くあると考えられる。売る側にとって紫色がかっていたら端渓硯、緑色をしていたら桃河緑色硯、書や絵を書かない人なら、水岩と言っても分からない。本物かどうかの鑑定などあっても無くても同じ、何でも高く売る者の勝ちである。劉演良氏が日本の市場を見て、偽者が横行していることが分かった上での発言らしい。

相浦紫瑞氏の説をまとめると以下の如くの点で、中国歴代の硯解説書と読み較べてみると面白いことがある。

1下巌、水岩同一説
この点に関して、呉蘭修は同一坑ではないと言っていないと考える。ただ水岩という名称が使用され始めたのは明の万暦以後であるとしているのであって、明の永楽時の開坑されたとしても、是は水岩という名称以前に採取された物だと言っているに過ぎないと考えるのだが。
2三層五層説を否定
呉蘭修他の硯解説者のほとんどが、坑道内に入ったことが無かったと考えて、この説は納得のいく文である。しかしこの三層五層説で繰り返し述べられる大西洞の硯石の石紋の記述は、この本の中にも生きているように感じる。呉蘭修の観察眼の確かさに改めて感心させられた。
3北壁、南壁の概念を否定
この説には最近『懐端瑞硯譜』が発見されて、この中に北壁を坑仔岩に、南壁を水岩に比定する説も現れた。更に南壁(下巌)の石質が北壁(坑仔岩)に比し劣っているとの記載も見られ、今後議論しなければならない問題であろう。
4水岩の坑道を本坑(正洞)と傍坑(東洞、小西洞)だけに分ける。
実際にこの硯が小西洞だとか東洞の石だと断定できる根拠がない以上この様に分類することは、やむをえない事と思われる。即ち大西洞をのぞいて、他の洞の石の時代を論ずることは出来ないだろうし、本坑の石にしても時代によって石質は相当異なっていることが考えられ、山坑との鑑別も難しいのではないかと考えられる。特に今回再開された水岩の石質を見るに、必ずしも水岩の石が山坑の石より常に優れているとは言えない状況になっている。端渓の歴史は水岩の歴史であるとする氏の説に対し、私は端渓の黄岡村々民を守ってきたのは、山坑と水岩神話だと考えている。今後議論の必要な点である。
5硯石は輝緑凝灰岩であるとする。坂東貫山等の説を踏襲
劉演良氏の報告の原稿を読んでいながら、まだ、この説に固執しているのはなぜだろうか。輝緑凝灰岩は火山灰や火山性砕屑物が海底に沈殿して、石化してできる岩石である。現在地質学や鉱物学でもこの用語は使用されなくなっている。この岩石内に少量の雲母鉱物が含まれて入るが、変成の程度も軽く、当然硯の石質には程遠い岩石である。『新説端渓硯』で硯石を泥質岩、又は泥質頁岩としていて、坂東貫山説を否定している。明治から大正にかけての地質学はまだ未開と言って過言はない。やはり現代の地質学用語を使った説明が必要であろう。