5.私の硯癖
私が硯に興味を持ち始めたのは1990年1月からであった。友人から貰った不思議な硯に興味を持ち、硯の由来を知るべく本を買い集めているうち、硯癖という病に取り付かれてしまった。
友人にもらった不思議な硯の右側面になにやら古い文字が刻されていて、これを読めれば何か分かるに違いないと考え、解読に3ヶ月を要した。小篆文字で、文頭に杜甫だの李白だの、とんでもない人物の名前が出てきて大騒ぎになったが、結局韓愈の詩である事が分かって、国宝級の唐硯という夢は破れた。徹底的に夢を破ったのは相浦紫瑞著の『図説端渓硯』であった。この本にこの硯の写真が載せられているのを見つけた時である。なんと「模造紫色硯」という二つ名を持つ有名なプラスチック硯である事が分かった。道理で実体顕微鏡で見ても結晶が無かったはずだ。この硯の解明に約3年を要してしまった。しかしこの3年間で端渓硯に関する資料が大量に集まった。
初めて買った端渓硯は、文房具屋で見た麻子坑硯であった。裏の一部が欠けてしまって、これを接着剤で張り合わせてあるとの事で5千円で買うことが出来た。この硯はいわゆる古硯だったようで、墨の下りも良く、何と言っても硯全体が淡い臙脂色を呈することでも気に入った硯になった。色々な本を読み、端渓硯に関する知識が蓄積されたと思って、飛び込んだ骨董屋に古めかしい端渓硯が置いてあった。まず硯周囲に黄臕が付着しているのを見て端渓硯だと判断した。色は灰蒼色だがわずかに臙脂色が混じっていた。青花や火捺はみられなかったが、2個の翡翠点が気に入った。彫りは力強かった。高い値段を吹っかけてきたが、そんなに高い金を払う硯ではないと、突っぱねると、とたんに半額になった。頭を傾けていると更に半額になった。この段階で古硯ではないと気が付いたが、これ以上負ける気配は見られなかった。2万円であったが、勉強の為には少し投資が必要であった。家に戻って墨を下ろして見たが、いくら磨っても発墨してこない。結局この石が沙浦石であると教えられたのは数ヶ月後であった。
また、あるガラクタ屋に飛び込んだ時、何でも100円のコーナーで硯函を見つけた。中に雨畑硯が入っていたのには驚いた。同じ頃、文房具屋で歙州硯を見せてもらった。ここでは墨を下ろしても良いといわれて、試みに墨を1本買って、磨らしてもらった。余りの下墨のよさに惹かれて購入した。古硯であったが値段は高くは無く、常用には最適であった。我が国の雨畑硯が端渓硯より使いやすい事もわかった。何といっても着墨しないので仕事のあとかたずけが簡単なのである。
1992年『墨スペシャル11-文房四宝の全て』という雑誌に「全国文房四宝ショップガイド」という、文房四宝や書道用具を専門に扱う店が紹介されていた。この本に載っている店で、容易にいける都内の店に足を運んで古硯と新硯を見て回った。
実の所、私に硯癖と言う病が取り付いたのだが、世間で言う硯のコレクターではない。早く言えば硯石のコレクターである。硯の石質に興味が出てしまったのである。多くの石の結晶を実体顕微鏡で眺めている内、硯の石質に興味を持ったのである。この癖は単に山や川原で石を拾って済む問題ではない。実際に硯が無ければ何も分からない世界である。また硯は高価なので、硯を壊して割面を観察するというわけには行かない。
本を読んだだけで、また、写真を見ただけで硯坑や時代の鑑別など出来るはずはない、と考えていた。特に多くの本に載る有名な硯が、これは宋、下岩硯とか、明坑水岩とか出てくる根拠についても信用するわけには行かなかった。昔から水岩には多くの贋物があるという事はどの著者も述べている。洮河緑石硯については、西清硯譜にも載っていない。米芇も見た事がない硯がどうして日本に何面もあるかが理解が出来ない。同じように現在売られている澄泥硯も本来陶硯であるはずである。西清硯譜を見れば明かであるにも関わらず、この名称が氾濫して高価で取引されている。石製の澄泥硯などあるはずが無いのである。また一流雑誌に米芇銘の入った下岩硯が載ったことがある。思わず噴出しそうであった。硯の業界とはこんなものだったのだろうかと。
銘や硯式だけで時代や坑名を鑑別するとの事だが、銘はいつの時代にでも簡単に彫れるのである。硯式も、少し知識のある者が指導すれば、硯の職人はいかようなものでも作ることが出来る。
今まで述べられて来た諸説を全て信じるわけには行かない。まず全てを更地にして考える必要がある。
これは私の昔からの考え方で、自分ではこれを更地屋思想と呼んでいる。定説はいつか、必ず、誰かが覆す。私が他人の説をひっくり返すわけではない。自分の頭の中に定説を住まわせないだけのことである。多くの書籍を読むのも、写真を見ることも、実際本物を見たり触ったりしながら、自分の頭の中に硯と言う建物を建てる。他人の家に間借りなどしたくはない。自分の家を作る。しかし、そう簡単に理想的な家が出来るわけではない。か、と言って不完全な家に住もうとは思わない。しかし雨露だけは防がねばならない。朝家を建てても夕には又更地にする。建材(古の硯説)はそこらへんに転がしておけば又家を建てる材料になるかもしれない。
硯の石紋や石質を現代科学の力で鑑定することが出来ないだろうか。これが私の根本的な考え方である。
はじめに注目した事は、斧柯山周辺の硯坑は皆坑道状に産出されると言う事であった。それに対して沙浦石の如く露天掘りで山肌を切り崩して石を採取し、硯になりそうな色の石を選んで硯にする。残りは建築資材にされると言う産出状態である。この採石方法は歙州硯の採掘現場に良く似ている。また、宋坑の採掘現場の写真もある雑誌に載っていた。これも歙州硯の水舷坑の採掘現場に似ている(竹之内幽水著『図説歙州硯』参照)。即ち硯石は各坑皆産出状況が異なっている。ただ端渓川流域東側の斧柯山周辺の坑はどうも坑道状を呈している、と言う事が以前から気になっていた。他の坑と根本的に異なっている点である。
産出状況が異なると言うことは、硯石の形成過程が異なっていることを意味している。この違いが、実体顕微鏡で観察するくらいでは解決できるとは考えないが、何かきっかけが見付かればいいと思っていた。
端渓硯写真撮影技法の開発
私は学生時代から写真趣味があった。写真撮影というよりむしろ写真機のほうに興味があり、毎月購入する写真雑誌で家の床が抜ける心配をしなければならないこともあった。撮影の対象は大きく2種類あり、一つが接写である。1985年頃、まだコンピューターは発展段階の途上にあった。この頃のコンピューターはPC-9800で、自分でプログラムを作らなければ、枕にもならない代物であった。この頃スライド作成には接写が欠かせない作業であった。もう一つの撮影対象は風景、特に地質の撮影であった。高校時代地質学に興味を持って地質学部を受験したこともある。商売が「いしゃ」になっても、「いしや」の趣味は続いていた。旅行に出ると必ずその地の特徴的な石を拾い集めて持ち帰る。このため庭の一隅にこの石の山が出来るほどであった。この石を観察するため、中古の実体顕微鏡を購入して、閑があると石を眺めていた。興味は石の結晶にあった。どのような岩石でもその割面の結晶は非常にきれいである。ただ残念なことに、この結晶を写真に撮ることが出来なかった。実体顕微鏡の写真撮影装置は非常に高価で、とても女房様に買ってくれ、とは言い出せなかった。
ある専門誌にきれいに写った血液像の顕微鏡写真を見た事があった。聞くと4×5インチカメラで撮影した写真との事だった。こんなカメラを顕微鏡に装着する器具は特注である。大学の研究室にでも行かないとお眼にかかれる代物ではない。この学者は本を作るためにはどうしても良質な写真が必要と考えて、作った特注の写真機材との事だった。確かにこの頃は、フィルムのサイズが大きければ大きいほど良質な写真が得られた。
人にある事を伝えようとしたら何万字の文章より、たった一枚の写真のほうが有効な場合がある。
本来岩石や鉱物の結晶を観察する為には偏光顕微鏡を用いる必要がある。しかし、この顕微鏡で結晶を観察するには鉱物の薄片を作らなければならない。厚さを0.02~0.03mm
の薄片を作るには、専門的な道具が必要であり。これをカナダバルサム樹脂に包埋してからでないと観察できないと言う。しかも、偏光顕微鏡の理論は難解で、都城秋穂、久城育夫共著の『岩石学Ⅰ:偏光顕微鏡と造岩鉱物』を読んでも、まだ見たこともない顕微鏡の取り扱いをマスターするには、この先何年かかるか分からない。更に通商産業省工業技術院地質調査所編の『日本の岩石と鉱物』という写真雑誌に多くの岩石の偏光顕微鏡写真が見られる。ここには砂岩や頁岩の写真もある。この写真を見て端渓硯の鑑別にこの顕微鏡が有効であるとは思えなかった。 鉱物の鑑定を行うのではないからであった。
更に、古硯は皆文化財である。この一部を削り取って観察すると言うわけには行かない。非破壊的な検査がどうしても求められる。
これは写真撮影、特に偏光撮影しかないと考えていた。しかし硯を水の中に沈めれば石色、石紋がはっきり見えることは分かっていたが、これを写真に撮ることは至難の業である。何回か試みているが、どうしても水面の反射やカメラの写り込みを除去出来ないだけでなく、写真で最も大切なピントがうまく合わないのである。偏光フィルターを装着して、左右からフラッドランプで照明したり、ストロボを使用してみたがいずれもうまくいかなかった。
実体顕微鏡で硯石を観察したくてもサンプルが無かった。麻子坑硯1枚と沙浦石だけでは物が言えない。水岩の原石を手に入れたい。それも、出来れば大西洞の原石が欲しかった。
別の広告で龍鳳という店が目に入った。この中に「50万以上お買い上げの方に老坑水巌原石を差し上げます」という文があった。この店に行けば水岩の原石が見られると考え、早速訪れて見た。予想通りここには水岩の原石と思しき冰紋の入った、手のひら大の硯板が多数置いてあった。硯ではないので皆安い。人間国宝黎鏗師の作った硯も展示されていた。これが1972年に再開された水岩大西洞の石で作られたものだと言う。多くの文具店には新端渓水岩とか大西洞と書かれた硯が並んでいた。古硯を置いてある店もあるが、値段は古硯より格段に安い。水岩には決まったように多くの冰紋と思しき紋が縦横に走っている。呉蘭修が大西洞開坑の折に冰紋の入った硯を手に入れ、喜んで銘を入れたことは有名な話しである。新端渓の彫りは古硯に較べて皆、個性が無く、同じ様なデザインである。魚脳凍らしき紋が見られるものがあるが、ほとんど青花が見られない。火捺はあっても臙脂色には程遠い。呉蘭修の文より想像できる石紋とは合致しないものが多かった。しかし黎鏗師の彫った硯は、初めてお目にかかった大西洞らしい色をした硯であった。『端渓硯史』で言うところの青花はわずかにしか見られないが、氷紋凍と思しき石紋には感激してしばらく見入っていた。
青花のある硯板を探していると話したところ、青花や魚脳凍のある石は大西洞でも滅多に現れないとの事だった。ここで骨董屋で買ったあの硯の事を聞いて、あの石が沙浦石と教えられた。
この店での収穫は手の平大の水岩原石の硯板5面と、端渓諸坑の硯石のサンプルだった。水岩の1面は小判形で、小さな青花らしき紋もあり、金線とも冰紋とも見分けが付かない線が交差して走り、この線の周りに白色の魚脳凍と思しき紋が入っていた。周囲には黄臕も付着していた。しかし硯全体に潤いが無く、乾いた感じの石であった。
顕微鏡で硯石を観察すると、特に端渓石の結晶は定向配列はしていない。歙州硯の場合、水波羅紋にしても眉子紋にしても、結晶が一定方向に向いている。端渓硯にはこの一定配列が無いのである。結晶は微細で、結晶の面に反射した光には大小がある。大きい結晶はどうも石英らしい。また中に全く雲母化していないと思われる黄色い物質が見られる。これは雲母化していない粘土の結晶と思われる。黄臕はこの粘土が雲母化せずに結晶化した物の様だ。又冰紋には純白のものは非常に少なく。ほとんどが黄色い結晶が詰まっている状態である。金線も同じようには黄臕と同じ成分が結晶化したものである。この裂隙の周囲に白色の紋が発達し、更にその周囲に臙脂色ではなく、赤紫色の紋があたかも周囲に押しやられたような形で見られる事が多い。
あと1面の板硯にも同様な紋が見られた。この石は硯に利用できる大きさではなかった。側面の状態が見たいので、下面と右側面をサンドペーパーで削り平らにしてみた。さらに、割面を磨き上げて見ると、厚さ約1cmだが、表面から裏面まで抜ける魚脳凍が見られ、やはり中を金線が走っていた。青花に似た黒い紋もこの裂隙の周囲に発達していることが多かった。
あと1枚のサンプルは手の平大だが、青紫色を呈していて、金線、魚脳凍の見られる石であった。この石はまだ硯の形状をしていない原石そのままであったので、硯板にすることにした。周囲の凹凸を削り取ると、小判型になった。上下面を平らにして青花を探ったが現れなかった。しからば、この石の縁を残して小硯を作ることにした。彫刻刀を買い込み、ゴリゴリ削って見たが、素人がそう容易く、硯を作れるはずがない。結局この石は墨池に使うことにして、水ペーパーで鏡面になるまで磨き上げた。硯石の堅さが分かり、いい経験になった。この容器は大量の墨汁を溜める事が出来、太字を書くには重宝な器になった。
さて、硯坑のサンプルも集まったが、果たしてこれが正確に各洞坑の硯石かどうか疑ってかかる必要がある。なんせ「騙す人悪くない。騙されるひとパカネ」の国の人から買ったものである。しかしここはまず信じるより他ない。まず、硯石の中には数%の割合で赤鉄鉱が見られるとの報告であるが、赤鉄鉱の結晶で微小なものは、ベンガラと呼ばれ、赤色顔料になる。実体顕微鏡をのぞいて見ても黒い紋の中に赤鉄鉱の結晶らしきものは見られない。鉱物学の本を見ると白雲母の微細なものを絹雲母と呼び理想的な構造式は
K2Al4Si8Al2O12(OH2F) であるが一般にはMg,Fe2+,Fe3+ を含んでいて
K2(Al,Fe3+,Fe2+,Mg)4(Si,Al)8O20(OH,F) と表されるとのことである
以下は鉱物学、結晶学の本を齧って出来た、私の考えである。世に鉱物学者は多いが硯石、特に端渓硯の研究報告はまだ見た事が無い。もし専門的な知識をお持ちの方があれば御教示願えれば有り難いと思っています。
即ち赤鉄鉱は単独の結晶で存在するのではなく、白雲母または絹雲母の結晶内にイオンの形で存在するのではないかと言う考えが生まれる。一つ一つの結晶内に含まれるMg,Fe2+,Fe3+イオンの割合の違いが様々な色になっていると考えた方が理解しやすい。更に一つ一つの結晶が集まって複雑な石紋を形成しているようだ。
Mgは赤系の発色をするようだ。Fe2+は黒系、Fe3+は緑系の発色をさせるようだ。又は鉄イオンやMgの含有量の差が端渓硯のあの赤紫から青紫色を発色させるのかも知れない。そして鉄やMgを含まない結晶の集合体が魚脳凍と思われた。
赤紫色の結晶の中に黒色の結晶が霧状に存在する。この黒色の結晶の交じりぐあいで全体が赤紫色から青紫色に変化している様にも感じた。
この店で買ってきた硯坑のサンプルを観察する時、水を載せないで観察すると、結晶の反射が密で均等に見えるのは、やはり水岩、坑仔岩、麻子坑である。他の硯は反射が一部途切れたり、全く反射がみられない部分が目立つ。色はこの状態ではまったくわからない。次に石を水につけてぬらした状態で観察すると色や石紋が現れてくる。
質の良い硯の基盤となる色は紫に近い発色をする。硯の色が黄色系に見えるのは梅花坑で、浩白岩と宋坑の石は褐色を帯びている。朝天巌の石もわずかに褐色を帯びている。水岩、坑仔岩、麻子坑、古塔巌、沙浦、白せん巌の石は紫色を呈しているが、濃淡でわずかに差がある。これは赤系の結晶に、どれ位の量の黒い結晶が混じているかにかかっている。多いと青紫色を呈する。赤色系の発色が弱いと硯面は白味を帯びた色になる。かん羅焦、白せん巌、沙浦の石はこの種類になる。最も著名な現象は結晶内で雲母化していない黄色い(恐らく粘土の結晶化したもの)挟雑物の含有率であろう。最もひどいのが梅花坑、この石には半分くらいしか雲母結晶が含まれていない。黄色を呈する理由であろう。私は硯の品質で最も大切なことは、硯面全てが皆雲母化しているか否かにかかっていると考えている。
次に硯面は平らだと考えていたが倍率を大きくしていくと、結晶の間に山があり谷がある事も観察出来る。研磨が足りないのかも知れないと、1200番の水ペーパーで鏡面のように磨き上げても同じあった。質の悪い硯の表面には多数の孔が開いている場合もある。これが着墨の原因であろう。歙州硯にはこの孔は開いていない。
以上、実体顕微鏡で観察して言えることは、結晶が緊密に均等に分布し、挟雑物が少なければ良質であると言えそうだ。次に硯面の凹凸が少ないこと。色で最も重要なことは、基盤となる結晶の色、特に赤色系の発色の良否に関係が深いと考えられた。
この硯石のサンプルには典型的な石紋は含まれていなかったのでべつの機会に又考察してみたい。
私は結晶化した赤鉄鉱が岩石の中を自由に移動できるはずがないと考えている。イオンを運ぶのは水である。熱水である。
まず岩石内にたまった水は地底深くで出口は無い。高圧で熱水化し、周囲の岩石を溶かして、粘土化させて、空洞内に蓄積される。 この場合周囲の岩石が火成岩でも水成岩でも同じであると言う。岩石は風化すると皆粘土化していくようだ。
沙浦石は露天掘りで山の岩石を切り崩すようにして採取されている。原石は水成岩で、厚く堆積した泥や粘土が強圧で雲母化したものである。硯石が雲母鉱物である事には変わりが無い。大きな違いは、熱水が二次的に作り出した粘土であるか、水中に堆積した粘土層かどうかにかかっている。熱水中に溜まった粘土と海水中に堆積した粘土には、恐らく純度に差があるようだ。坑道上で産出される硯石が層状を呈さない。熱水変成鉱床と堆積岩の違いが硯の質に大きな差を生んでいると思われる。更に粘土は熱と圧によって白雲母化する。白雲母化しない粘土鉱物が黄臕である。水岩の中には子石と呼ばれて、周囲を粘土で覆われていて、簡単に取り出すことが出来たり、または水の中に落ちている石があるとの事だが、この為であろう。熱水中には様々な金属がイオン状で存在する。この熱水によって運ばれた金属イオンが白雲母内のイオンと置換して様々な色を発色させる。これが水岩の本質ではないかと考えた。 問題は端渓諸坑の硯石が実体顕微鏡で区別できるかどうかであある。良質なものと良くない石の区別は出来そうだが、坑を鑑別するだけの情報は得られないだろうと言うのが今の感想である。
今回得られた水岩の原石は全て新坑のものである。今まで集めた色々の本から得られる情報の硯石とは大いに異なっているように感じていた。やはり古硯を少し集めるより他は無かった。
硯の職人は石紋のきれいな石を見ると、刻を加えないで硯板状にして残す方法を選んだと言う。硯板には優秀な石が多いと聞く。『図説端渓硯』には多くの、大西洞の硯板の写真が載せられていた。
そこで目標を次の様に定めて見た。
- 1.古硯の大西洞硯石
- 2.硯板
- 3.青花、特に玫塊紫青花のある硯
- 4.魚脳凍がある硯
- 5.臙脂暈がきれいな硯
これは呉蘭修が言うところの乾隆期大西洞水岩である。こんな代物が世の中に転がっていようとは思わなかった。しかし実際こんな硯が存在したのであった。
大西洞水岩裏刻山水樵漁図板硯
28.3×13.9×2.5cm大と言う巨大な板硯である。魚脳凍の中に青花結、玫塊紫青花、微塵青花、蟻脚青花、蠅頭青花、とまさに青花のオンパレード。天青とそれを囲む臙脂暈、天眼を模した翡翠点、焦葉白
この硯との出会いについては別項で紹介する。
この硯と出会って真剣に硯石の撮影方法についての検討を始めた。
端渓硯の偏光撮影技法の確立
あるとき病理学の友人が、摘出臓器の写真を撮る際生ずる、表面の乱反射を取り除く便利な撮影装置があると教えてくれた。早速見せてもらうことにした。驚いた事にその装置の光源は蛍光灯であった。其の前面を偏光フィルターの膜で覆い、更にカメラ側にも偏光フィルターを装着して撮影する装置であった。この装置を使うと臓器の表面の乱反射は完全に防ぐことが出来るとの事であった。後日、自分の持っていたニコンFT3にマクロレンズと偏光フィルターを装着して、龍鳳で買った小判形の新硯の大西洞硯板を持参してその研究室を訪れた。フィルムはASA100のリバーサルフィルムを1本用意した。その装置は外部の光を遮断できる暗室内に設置されていた。なるほど、ここまでこだわらないと本当の色を再現できなかったのだ。条件を変え36カットを撮り終えた。ファインダーを覗いた限りでは硯の色が再現出来そうであった。早速写真屋に持ち込み現像を依頼した。1週間が待ち遠しかった。出来上がった写真を見て感激した。この方法ならば端渓硯の色を再現出来ることが確信できた。このフィルムを四切サイズ(254×305mm)に引き伸ばして焼き付けてもらった。硯の面積の約十倍の写真が得られた。しかも石の色だけでなく、この石の石紋が忠実に写っていた。実体顕微鏡とこの偏光撮影装置があれば端渓硯の石紋をより鮮明に忠実に写し撮ることが出来る。
硯をこのように色、石紋を忠実に写し取れれば多くの人が硯に付いて理解がしやすくなるだろう。何回も言うようだが、今の世では百万字の文章より、1枚の写真のほうが価値があることがある。
この写真を現像してくれた写真屋さんは、パソコンの専門家でもあった。フォトショップと言うプログラムを駆使してどのような写真でも作り出すことが来た。まず焼き上った写真をスキャナーという装置を使い、色のデーターをデジタル化する。このデーターがあればフォトショップで、色や明るさ、更にコントラストまで、いかようにも加工できるのである。家にもマックのコンピュータがあったので、早速フォトショプと言うプログラムを購入した。値段の高いのにはびっくりしたが、この機能のすばらしさには感激した。早速スキャナーも買い込み、古い写真をデーター化して保存するというトレーニングを重ねた。
この接写撮影装置、杉浦Lab のSL MPS―Ⅱが届いたのは半年後のことであった。簡易暗室も付けてもらったので、設置場所に苦労をしたがどうにか収まった。試験操業はまず硯石のサンプルから始めた。この頃まだデジタルカメラは高価で手が出なかった。フィルムで撮り現像してもらい、更に良く撮れた写真を引き伸ばして焼き付けてもらう。これをスキャナーでデーター化して、フォトショップにかけて色を修正し、思い通りの色を出し保存する。1本のフィルムが写真になるまでに最低3週間はかかる。手持ちの硯全てを撮り上げた。
この装置で硯坑のサンプルを並べて、偏光撮影をして見て驚いた。自然光では緑端と梅花坑の石は区別出来たが、他の坑の石を区別することは出来なかったが、明かに差が出た。驚いた事に宋坑と浩白巌の石は赤褐色に、梅花坑は薄緑色に描出されたのである。これが事実なら水岩系と宋坑の鑑別は容易に出来るという事である。朝天岩の基盤となる部分も赤系が強い。かん羅焦と白せん巌の基盤の色は白味がかっている。問題は老坑と麻子坑、坑仔岩、古塔巌である。もう一つ沙浦石も老坑との鑑別が難しい
しかし、この撮影装置は端渓硯にのみ有効である事が分かった。歙州硯では特徴的な水波羅紋が消えてしまうのである。歙州硯はむしろ、多燈ライティングの方がきれいな写真が出来る。また硯の彫りも同様であった。硯の刻をきれいに写すには、これまた多燈ライティングでないときれいに写らない。この装置は、ただ端渓硯の石質を写すことだけに有効である事が分かった。
これ等の試し撮りを経て初めて大西洞硯の撮影を始めた。硯を壊すわけには行かない。このクラスの硯は重要文化財である。きれいなデーターをコンピューターに保存するまでには約半年を要した。裏面の刻は拓本を取る事にした。これも思考錯誤の連続でどうにか1枚、気に入ったものを作ることが出来た。今回これらの写真を全て公開したが、この写真はデジタル写真機が実用化される以前の写真である事に留意して欲しい。
硯癖とは云っても、私が硯集めをしたのは硯の石質に興味を覚えたからに他ならない。
何事にも凝れば金がかかるのは世の常である。この硯癖を黙って許していた妻の協力がなければ成しえなかったことである。しかし硯を集めても一向に字がうまくならない自分に最近嫌気をさしている。集めた硯が今後いかなるところに流れていくかは、全く考えていない、私が生きている内は私のものである。硯は自ずから良人を選ぶという。字はうまくなれなかったが、これだけ大事に扱っているので、今は硯もこの私を許してくれていると思う。